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状況論を学ぶ #1 『状況のインターフェース』序章

大学院時代に教育の文脈で状況論を専門としてやっていたが、修めた自信があまりない。
今の仕事でも結局役立つことだし、
なにより自分の関心のストライクゾーンということで、学び直してみる。
不定期に、できる限りやっていく。

今回は上野直樹編著(2001)『状況のインターフェース』金子書房(状況論的アプローチ①)から、上野直樹先生による序章「状況論的アプローチ」を読んでみて、ざっくりこの本で何の話がされていくのかを咀嚼していきます。

認知心理学の問い直しとしての状況論

状況論の1つのポイントは、認知心理学の問い直しだった。

転移の話

転移という概念への考え方が例示される。
転移は認知心理学的には重要概念だけど、状況論はこれに待ったをかける。

知識が転移する。つまりある文脈A(例えば、学校で足し算を習う文脈)とある文脈B(スーパーで買い物をする時に合計金額を頭で足して計算する文脈)とでは、数の概念やら、足し算の概念などといった「一般的知識」がAとBとの間で行き来しているようなイメージ?

これは本当だろうか?その疑いが状況論の出発点である。
そもそも、「知識は転移可能か」という問い自体がナンセンスでは?というのが状況論の重要な問いである。
結局文脈Aには文脈Aを構成する要素があり、文脈Bもまたしかり、である。構成要素が酷似していたとしても、AとBは別ものであり、その別々に構成されている状況はあくまで別物として扱いませんか?という提案である。
あるいは、AとBでの転移について考えてもいいけど、そのAとBでの転移について考える際の文脈にも着目しませんか?っていう提案である。

ガン細胞の治療ストーリーと、敵の陣地への攻撃ストーリーを結びつけようとする話
2つの話は別の話だけど、共通の話に見立てて語ることもできる。
その際にそれぞれの文脈の構成要素を明示したり、あるいは明示しなかったり(隠したり)することで、共通の(一般の)話っぽくすることもできる。
実験室では要するにこういうことが起きているという批判である。
一般化をすることはいいんだけど、そこには結局実験室の文脈が入り込んでいるわけだから、その文脈における転移概念だよねと。そうじゃないと語れないよねと。
ガン細胞治療ストーリーをベースにして、実際に戦いの現場で「似たような」敵の陣地への攻撃戦略が取れそうな状況が生まれたとて、それをそんな簡単に反映してうまくできるかどうかっていうのはまた別の話だと。

つまり、一般的知識というものも、実験室という文脈の中にしかないものだよね。というところに落ち着いていく。結局コンテクストから切り離せないでしょ?と。

アフォーダンスという見方はどうか

なるほど一般的知識も文脈依存(実験室)であると。じゃあさ、アフォーダンスはどうなのよ?となるわけで。アフォーダンスが転移を可能にしてるんじゃないの?と。

これに対する状況論の見方は、基本さっきと同じだが、
結局ね、相互行為もコンテクストの組織化も、道具のアレンジも、対象のアフォーダンスの構成と切り離せないんじゃないの?
てか、アフォーダンスだって環境やコンテクストが作られる中で浮かび上がってきてるんじゃないの?だから文脈依存じゃない??と。

相互行為への着目

状況論は相互行為を大事にするわけですね。大事な観点として出ていたのは

(1)コンテクストは社会相互行為的、道具的にそのつど組織化されるという観点。
(2)実験場面をある独特の相互行為の組織化として見るという観点。
(3)知識を頭の中にできあがった何かとしてではなく、相互行為的、共同的にコンテクストを織りなす活動の中で達成される何かとして見るという観点。
(4)コンテクストを理解したり、表示したり、コンテクストの理解を示しあったりしながら、コンテクストを組織化するのは相互行為を行なっている当人たちであるという観点。

p.4

要は視点が全然違うわけ。認知心理学が見ようとしているところと状況論が見ようとしているところ、全然違うんですよ。
認知心理学だったら、実験室の舞台装置の上で、実験者が被験者に対して何をして、その結果被験者にどんな影響(効果)があったかに着目するのだけど、
状況論だったら、そもそも実験室のコンテクストっていうものは、実験者と被験者と実験に関わる道具とかその他の人々みたいなものによって構成される文脈があって、その文脈全体に着目しようとするということなんですね。
どうやってこの文脈が、構成要素(人、もの)によって相互的に構成されていくかっていうところが着眼点。

なので、結局認知心理学のキー概念である「転移」ひとつをとってみても、
その概念がどうやって生み出されてきたのか、繰り返し使われてきたのかっていうのを、その概念に紐づくコンテクストに着目して、考えてみようとしているわけですね。

学ぶ=知識を獲得する
っていう概念があったとした場合、「学ぶ=知識を獲得する」っていう概念を成立させているのは、どういう文脈や制度や時代背景なのかみたいなことを見ていくっていうことなのかな??

エスノメソドロジーの視点から状況論を考える

ここではリンチ(Lynch. M)の1993年の論文が参照されながら議論が展開されている。

高速道路の車の流れの例から社会学を考える

具体例は高速道路の車の流れの話。これをどうやって記述しようか考えている。
高速道路の車の流れをみて、
今後の予測やシミュレーションであったり、事故に着目したりすることもできるし、
交通を管制することもできる。
こういう鳥瞰的な視点で高速道路の車の流れを見る視点が、これまでの伝統的社会学の視点と類似しているのではないかというアナロジーが提示されている(認知心理学者からは、いやそれ転移じゃねーのかよ!みたいな声が聞こえてくるけど、それに対して状況論は、この転移的な現象についてコンテクストを見ることは忘れてませんからみたいな主張をすんのかな笑)

エスノメソドロジーの考え方は鳥瞰的な視点とは別になる。
鳥瞰的な視点をマクロと考えるなら、エスノメソドロジーはもっとミクロな考え方とでもいうのだろうか。
高速道路の話なら、ドライバーの視点を持つのである。ドライバーの相互作用によって高速道路の車の流れがつくられているわけで、そこに着目してみようよという提案である。
ドライバーが車という道具にのり、地図をみたり、周りの車の動きをみながら実際に車を走らせ、その相互行為の集まりとして高速道路の車の流れが生み出されている。

そうすると、鳥瞰的視点はおさらばっていうことだろうか。
というとそういうわけではなく、エスノメソドロジー的視点では、例えば渋滞予測やシミュレーションも、事故研究も、その文脈の構成要素の中での相互作用によって立派に成り立っていて、その当事者の視点を持とうとするわけである。

面白いことに、車のドライバーは、そうやって鳥瞰的視点で車の流れを見ている交通管制や事故研究の知見も、車の流れを考える要素の一つとして文脈に取り入れ、車を走らせていて、
その複雑な相互作用自体への着目が、状況論の真骨頂らしい。

相互行為や関係の組織化

車の流れだけでも、ドライバーの視点での文脈もあれば、交通管制をしている人の視点での文脈もある。そしてその文脈間にも相互作用があるわけだけど、
その相互作用がどのように行われているのかという新しい問いがここに生まれる。
・個人がコミュニティの境界を横断するのか
・それぞれのコミュニティの参加者が相互にコミュニティを横断するのか
・あるいは横断を通して幾つかのことなった実践やコミュニティの間に関係が生まれていくのか

この問いに対して、まずはウェンガー(Wenger)が1998年に出したコミュニティ・オブ・プラクティスという重要な論文が参照され、
複雑な現代社会の中で、個人は複数のコミュニティに参加していて、その参加を調整している
ということを整理している。
さらに、ここレイブ(Lave)の議論も登場し、
・学習をいくつかのコンテクストの横断の軌跡として捉え直すべきではないか
・学習とは、いくつかのコンテクストを横断する「参加の軌跡(trajectory of participation)」として定式することができる
と論じる。(ここでなぜLaveの学習についての論考が参照されたのかはよくわからん)

次の問題点

次の問題点は「個人」への着目だ。
これは読み進める中で僕自身も非常に気になっていた。

ここまでの議論を読み進めていくと、文脈への着目はいいんだけど、結局視点は「個人」が前提になるの?
だとすると、大事な観点の「(3)知識を頭の中にできあがった何かとしてではなく、相互行為的、共同的にコンテクストを織りなす活動の中で達成される何かとして見るという観点。」はどこへ行ったの??と思っていた。

これに対しては、
そういうことでもない。
結局、関係構築、関係の組織化においては、相互作用が重要なわけで、
相互的に構成しあっているということを忘れちゃいけないよと主張するわけである。

さっきのLaveの学習の話からの拡張として

学習とは、一人の「コンテクストの横断」、あるいは、「参加の軌跡」ではなく、むしろ、全体的な協同的関係、相互参加のあり方の再編ということになるのではないだろうか。このようにして、学習とは、多層的なコンテクスト、多層的な参加形態の相互的な構成の中に埋め込まれていると言うことができる。

p.17

と論じている。

構成要素の変容可能性

さらに、関係や相互作用の構成要素については、その変動可能性の高さについても言及している。
学校建築について、学校関係者と建築関係者との対話では、お互いが持っている文脈がの交わりが難しくて話がなかなかまとまっていかないと言う課題があるが、
そこに「プロトタイプ」を導入し、それをベースに共に議論することで、
学校関係者と建築関係者というそもそものコミュニティの分断が弱くなり、ともに学校建築をつくっているコミュニティの構成要因として、新しい存在が相互作用として生まれていくという話をしている。
そしてそのプロトタイプみたいなもの(ここでは、「境界的オブジェクト」と呼ばれているもの)たちも、所与のものではなく、相互作用の中から生まれてくるものだと主張している。

学校建築の例で言えば、
お互いに歩み寄れず分断している状況があり、建築関係者側がプロトタイプをつくることにした、今度はそれを議論しているコミュニティみんなで見て、そこで新しい議論がうまれ、この時にはもう分断はなくなっていっているみたいな?
そういう相互作用が絶えず生まれ続け、変容し続けているということだろうか。

今日分かったこと

・状況論が、認知心理学の前提に対する問い直しであること。
・状況論が、とにかく相互作用を大事にしていること。
・状況論は、コンテクストの構成それ自体について、マクロとミクロの両方の視点を総じて捉えようとしていること。

よくわからなかったこと

基本的に専門でやっていたこともあり、共感ポイントは多めなのだけど、
・転移の例からでてきた、文脈への着目の重要性が結局なぜなのか、
・そもそも転移ってなんだっけ?
・アフォーダンスがようわからんかった(前にノーマンの本とか読んだけども)
・急に学習について言及されたこと
などがあんまりよく分かってないなぁと言う感じでした。

次回は第1章を読んでみます。

書籍情報

上野直樹編著(2001)『状況のインターフェース』金子書房 p.1-23



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