だれ次第の人生か
不満にも色々あるけれど、その多くは前提が「やってもらって当たり前」精神になっている。
同僚が頼んだ仕事をしてくれない。友人が約束に遅刻ばかりする。恋人が返信をくれない。家族が掃除をしない。
「〜してくれない」の裏にあるのは、相手に求める乞食根性です。他者は自分のためになにかをしてくれる人だと思っている。けれど、そういう思惑ほど見透かされる。
コントロールされそうになったら嫌になるのが人間だとつくづく思う。
だからこそ、与えることから始めた方がいい。
この前友人の話を聞いて、身に沁みた。
新婚で共働きの友人は、自分が早く帰宅した日には「今日何時に帰る?」と連絡して、帰ってくる時間がわかったら、その時刻に完成するように料理を作るらしい。
段取り力や手間を惜しまないのはもちろん、なによりもその精神に僕は尊敬しました。
「だって、できたてのものを食べて欲しいじゃん」
シンプルなその一言に、これが愛することだなと思いました。
そこに押し付けがましさはありません。「(この人のために)作ってあげたい」のではなく、「(自分が)食べて欲しい」のです。
自分の想いを乗せながらも相手に選択の自由を残しておく。
「誰かのため」は、時に免罪符となって、人に押しつけられることがあります。そして断られると「せっかくやってあげたのに」となる。
けれど、自分がその人に対してしたいからやるであれば、拒否された時にあっさりと引き下がれる。
誰かとの関係性を考える際に考えてみるといいかもしれない。
誰かにしてもらいたいこと。
誰かにしたいこと。
どちらが多いだろう?
きっと、後者が多い方が満たされているだろう。
だって、前者は相手次第で、後者は自分次第だから。
自分でなんとかできた方が、それは楽しいし、やりがいもあるはずだ。