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ただそこにあって偶発する

 偶発性というものはどこから生まれるのか。

 実体を持つものの価値って、それが直接的に五感に訴えかけるからだと思っている。そこに見えて、匂いがあって、音がして、触れて、味わうことができる。

 意識していなかったとしても、その存在を感じている。

 そして、ある瞬間にそれを発見する。ただ、簡単に発見することができるものもあれば、時間をかけて発見するものもある。その典型的な例が本。

(↑twitterをやってない僕の元にまで届いたツイート↑)

 本嫌いの僕が読書をするようになったのは、10代半ばで暇を持て余した時に姉の本棚を見つけたからだ。自分が読みたいと思える本がそこになければ、未だに僕は活字嫌いのまま引きこもっていたかもしれない。 

「そこにある」ことで、偶然の出会いが生まれるのだ。

 ただ、これからの仮想世界において、便利さと天秤にかけた時に、実体はネックになると思っていて、「そこにある」は文字通り置き去りにされていく。
 欲すれば出てくる。そうした便利な世界では、主体性がものをいう。なんにでも興味・関心を持ち、検測する人がどんどん知識と経験を積み上げていく。

 主体的に学ぶことって放射状に学んでいくことだと思う。今知っていることと親和性の高いものにまた引っかかって、繋げて広げていく。
 けれど、それでは世界が小さくまとまってしてしまうかもしれない。なぜなら、1つの大陸ではあっても、遠く離れた世界のことを知れないから。

「特異点」ともいうべき、離れた場所に楔を打つことが必要だ。
 興味関心とは離れて、たまたま出会う刺激というのは、いわば離れた島国。そこを拠点として、また広げていけば、今まで黒塗りだった地図の端まで埋めることができるかもしれない。

 そこにある環境から刺激を受けないのは、とても寂しい気がするのだ。外から受けるものを煩わしく感じてしまう。それがゆえに人間関係はどんどん希薄になっていく。

 近所の人とひょんなきっかけから仲良くなり、その人から今まで知らなかった趣味の世界に引き込まれる。そういう偶然が 僕達の人生をガラリと変える。

 主体的・受動的、別にどちらかがいいという話ではなくて、両方必要。
 ただ、世の中の流れ的に今は主体性の方に傾倒している。行動しなければ、なにも得られない方向に傾いている。

 だからこそ、その先を見据えて偶発性をデザインしていく。
 ただそこにあって、なにかと出会い、自分の人生の地図に特異点が現れる。そんな仕組みを用意しておく。

偶然の出会いを日常に編み込む

「どうやって偶発するのか?」はちょっとまだわからない。
 ただ、僕はそれについて学びたいと思った。

 1つわかっているのは、偶然出会うためにはやっぱりそこに「ある」状態でなければならない。

 アマゾンプライムやnetflix定額制のコンテンツがどんどん増えている。それは単なるお得感以上に、ユーザーがどこかで偶発性を求めているからだと僕は思っている。
 絶対に自腹を切っては見ないけれど、定額のコンテンツに入っているなら触れてみよう。もしかしたら、気に入るかもしれない。

「なんかいい出会いないかな」というひどく投げやりな言葉にこそ、無自覚な本心が隠れている気がしてならない。

 ただ、電子書籍のようにデータ化されて収納されてしまうと、「そこにある」という感覚が得づらい。だから、どうしたら仮想的な世界において「ある」という感覚を生み出すのかが重要な気がしている。

 そして、ただ「ある」だけじゃどうしようもないのだ。
 いつも下を向いて歩いている人には、空の吸い込まれるような美しさはわからない。

 余裕が必要だと世間では言われる。
 それはもしかしたら、偶然が生まれる余地を生み出しているのかもしれない。

 例えば、朝から晩まで働いていて帰ったら寝るだけの生活をしていたら、そこに偶然が起こる余地は少ない。

 けれど、早くに仕事や学校が終われば、寄り道する気持ちが起こる。そして、普段と違う行動を起こせば、偶然が起こる確率も高まる。
「たまたま」そこに行って、「たまたま」知り合いに会う、気に入った商品に出会う。そんな経験をしながら、僕達は拡張されているのだ。

 意味のあることだけをやっていたら、偶然は起こらない。起こるべくして起こることばかりの世界の何が楽しいというのだ。

 日常の中に偶然をデザインしておく。そのために僕達はなにができるだろう?
 もう少し考えて、またまとまったら言葉にしてみたいと思う。

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ほんだ
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