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きける人はなにをしているの?

 結婚相談所の仲介人をやっている人とたまたま話す機会があって、婚活パーティーでは話のきける人が人気が出るのだと聞いた。年収が高い人やカッコいい人よりも、話のきける人の方がモテるらしい。
 それが成婚に繋がるかはさておき、話をきく人がモテるというのはすなわち、世の中にはきけない人が結構いるのだ。

 僕は話をきける人でありたいと思っている。それは自分自身があまり話をきいてもらえないという経験をしてきたからだ。
 意地悪をされたわけではなくて、単純に自分の意図するところとは違う解釈をされてきた。そのもどかしさは自分の身体をかきむしりたくなるほどだった。

3つのきくこと

「話をきく」時に受け取ることは大きく分けて、3つあると思っている。
A.言ったこと(言語のやりとり)
B.言わなかったこと(非言語のやりとり)
C.忘れていること(やりとりされなかったこと)

 例えば、旅行に出かける相談をしていたとする。そんな時にどんなやりとりがされているかを考えてみる。

A.言ったこと

 日時や集合場所、人数や旅程などをある程度すり合わせておかなければ、当日混乱してしまう。言葉通りの情報。

B.言わなかったこと

 限られた旅行時間の中では、行きたい場所、やりたいこと全てをできるとは限らない。複数でいると、誰かが気を使って自分のプランを言わないかもしれない。
 けれど、そうした時は身体をムズムズさせているなど、必ずシグナルを発している。そうした場において存在しているけれど、見えづらい情報。

C.見落とされていること

 天候次第ではできなくなることがあるのに、その時のことを相談していないかもしれない。また、旅程の手続きを誰がやるのかが明確になっていないこともある。
 なにかを決めれば、同時に決めなかったことが生まれる。その場でやりとりされていない情報は必ずある。

 一般的に「きく」ということを考えた時に、Aの情報のことを指すのだろう。
 言われたことを言葉通りに理解するだけならば、今時AIでもできるかもしれない。情報を理解するだけならば、誰もが「きける人」になる。けれど、現実はそうなってはいない。
 実際はそんなに単純なことではない。「1をきいて10を知る」という言葉があるけれど、Aの情報だけだったら、1以上の意味を受け取ることはできない。

 実際にはBやCの情報が膨大にあって、そこをくみとっている人が10を知ることができ、「きける人」になるのだろう。

まずは観察する

 Bの情報をきこうと思ったら、その人のことを知る必要がある。そして、それは杓子定規的な見方は役に立たない。
 10代の頃に、他人のことがわからなさすぎて、仕草からその人の心理を読み解く本を読んでいた時期があった。そこには「鼻を触ったり、口を隠したりする場合、嘘を言っている」のようなパターンが書いてあった。
 確かにそうした傾向はあるのかもしれないが、花粉症で鼻がムズムズしている人は、いつも嘘を言っていることになってしまう。
 つまり、あくまでも生の人間を見て、その人の身振り手振りの中で、そうした信号を受け取るようにしたしなければならない。その人の声のトーンは? 表情は? 言葉遣いはどうなっているだろう?

 きくためには見ることも必要なのだ。

ノイズをつかむ

 Cの情報をきこうと思った時には話の抜け落ちた部分を見つけることが大事になる。

 先日、情報共有のつなぎ役をしたことがあった。
 内部の人の仕事量が多すぎて、スタッフ同士で意思疎通ができていなかったから、部外者の僕が成り行きで話の交通整理をすることになったのだ。
 特に集団で行動する時に、個々での話が全体でも共有されていると思い込んでしまうことがある。
 本当に、言ったつもり、きいたつもりの情報があまりにも多い。そのため、同じ話を何度も翻訳しなければならず、ひたすら時間だけがかかる不毛な時間だった。

 その時に感じたのは、発言や質問の中に食い違いを見つけられることの重要性。
 
 僕の感覚的な話になるが、ノイズをきくようなイメージ。
 話をきいている時に、辻褄が合わない場面や焦点がぼやけてしまった時に雑音が入る。それを察知して、雑音を1つずつとりのぞいていく。
 そのために、表現されたことだけでなく、表現されていない情報や、意図せず抜け落ちてしまった情報を引き出すことができなければいけない。
 小説ならば、文脈の間を自分の想像で埋めるのは楽しい。
 ただ、相手が複数人いる場面において、自分の想像で埋めるととんでもないことになってしまう。だからきちんと確認を繰り返しながら、埋めていくことだ。
 そのために質問力が問われてくる。的確な問いをまず立てられなければ、表に出てこない情報をすくい上げることは不可能だ。

 つまり、きくために、質問を発することも必要なのだ。

きくのは身体的行為 

 こうして考えてみると、「きく」という行為は、自分の身体でもって、時に受け止め、引き出し、発見し、あぶりだすことなのだ。
 だから聴覚だけを使ってきこうとしているうちは、いつまでたっても「きける人」にはなれないのだろう。
 逆に言えば、きくことを磨いていく過程で、これまで見えなかった世界が見えるようになるだろうし、自然と整理された話し方ができるようになるのではないかと思っている。
 
 だから、やっぱり僕はきける人でありたい。
 今、僕がやっている諸々の活動は結局のところ、その修練に集約されていくのかもしれない。

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ほんだ
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