
義理の母という存在
いわゆるマリッジブルー、という感情なのだろうか。
結婚することに、こころがざわざわしていた。
事あるごとに、彼へ連絡を入れてくるお義母さん。
そのたびに
『代われって』
ケイタイを渡してくる彼。
特に話すこともなく、社交辞令での
『また彼と一緒に伺いますね』
『待っているわね』
という会話で締めくくられる。
もともと、生活に重きを置いている私達は結婚式はいらないと思っていた。
それに、私の祖父はお葬式で偉い人、と判明したために、私が結婚式をするとなると尋常ではないくらいの招待客をお招きしなければならないことも、結婚式をしたくない理由の一つだった。
だけど、お義母さんはどうしても結婚式を挙げたいようで、毎週のように結婚式場のパンフレットを送ってくるようになった。
根負けした私達は家族だけでの小さな結婚式を挙げることを選択した。
喜んだお義母さんは、ひとりで、もしくはお姉さんを連れて『私の』ドレス選びを始めた。同時に、会食用の食事メニューも担当の方とすすめていた。
『花はどれがいいかしら、ドレスは、今、この3種類に絞ってるの。やっぱりデザートはメロンよね。メロンの切り方でお金かけているかどうかがわかっちゃうわよね。』
おっとりとしたお義母さんだと思っていたけど、張り切ると暴走しちゃうのね、うんうん。
私は本当に特に結婚式という形をとることにこだわりはなかったので、ほとんど、お義母さんの決められたことに反対もせず、意見も言わずただただ
『よろしくお願いします』
見えてもいないのに、受話器越しに深々と頭を下げるのみだった。
小さな結婚式を滞りなく、義母の思い描いた通り無事に済ますと、今度は
『親戚回りに行かなくちゃ!』
張り切る義母。
彼と休みを合わせ、そして、義母付き添いのもと、挨拶回りに連れて行ってもらう。新幹線では、私の隣に座り、この人はどこの誰で、と事前学習させられた。時折
『ねえ、覚えてるわよね』
と、会話を振るのだが、大抵寝ている振りをしている彼。
親戚回りを済ませると、今度は、義母宅のある町内会の行事に駆り出され
『嫁ですぅ〜。息子、結婚したんですぅ。ほら、挨拶なさい。』
と、見ず知らずの方々にひとりずつ挨拶をする。
時折
『もう少し大きな声で挨拶なさい。本当に恥ずかしがり屋な嫁で困っちゃうわ〜』
などと、お姑さんぶる義母。
皆さんからもれなくお祝いの言葉を頂戴し、嬉しそうな義母。
(そしてこれが後に12年も続く・・・流石に12年目には町内会の方々から
「知ってるわよ」と、笑顔でツッコミが入っていた・・・)
こんなふうに、かまってくれる母親は居なかったな〜とぼんやりと思う。
こんなふうに、私の存在をアピールしてくれる大人も居なかった。
はじめは本当に戸惑った。
どう接していいかわからなかったから。
そして。
悪気がないのが一番悪い、とはよく言ったもので、義母聖子さんももれなく、悪気なく言葉を発する人だった。
第一子を妊娠したときのこと。
不妊治療をしてようやく授かった我が子。
しかし私は妊娠悪阻で入院してしまう。その後も自宅安静が言い渡され、家にいるとどうしても家事をしてしまうために、実家にお世話になることになった。
不妊治療での妊娠、妊娠悪阻、自宅安静での私は本当に病んでいた。
実家にお世話になるために理由を聖子さんだけに伝え、お姉様や妹さんには折をみて伝えるので、今は妊娠のことは言わないでほしい、とお願いした。
その矢先。
『きらさんはどこが悪いの?』
お義姉さんが尋ねてきた。
『ええ〜・・・と、あの〜その〜』
言葉に詰まっていると
『あ、言っておくけど、風邪とかじゃないみたいよ、ね。病気じゃないの』
と、なぜか誇らしげなお義母さん。
『病気じゃないってことは・・・(はっ)おめでた!おめでとう〜!』
はしゃぐお義姉さん。
『ね、私、言ってないわよ。』
なぜか誇らしげなお義母さん。
たしかに、直接的にはいってないけどさ〜、それはもう、言ったうちにはいりますよね〜!
いや、孫が出来たことが嬉しかったのだろうなとは思う。しかも内孫。
いや、それにしても、それにしてもだよ!
ポジティブにとらえようと思っても、病んでいる私には本当に辛かった。
どのように接していいかもうわからなくなっていた。
何年も経ってから思えば、そんな大層なことではなくて、私もちゃんと妊娠悪阻で、と、事情を隠さず伝えたら良かったことだった。
たったそれだけのことだったのだけれど、その時の私は、『義理の母』という存在に、困惑していた。
困惑していたのはもう一つ、理由があって、それはやっぱり、どんな形であれ私を丁寧に扱ってくれる『ハハ』という存在に出会ったから、と思う。
私を怒鳴りつけるでもなく、無視するわけもなく、話を聞いてくれ、一緒に御飯を食べてくれて、心配をしてくれる。当たり前のことなのかもしれない、世間で言うと普通のことなのかもしれない。
だけど、当時の私には、
『こんな大人がいるんだ』
という衝撃でしかなかった。衝撃というか、ある意味感動すら覚えたし、こんなに丁寧に扱ってもらえる幸せのあとにとんでもない不幸が襲ってくるのではないかという不安を覚えた。
産みのははの記憶はほとんどない。
育ての母は親子と呼ばれることなく別れてしまった。
夫の母だけがいま、私のとって唯一ハハと呼べる存在。
だけど私はどう振る舞うことが正解なのかがわからない。
常に干渉してくる義母。
義母という存在に、必死に適応する術を探し、試行錯誤。
しかし、そんな試行錯誤も術もいらないと気が付かせてくれたのは、当の本人の義母だった。
その話はもう少しあとの話し。