
大好き柴田Side Road 〜かきかけのFANZINE日記〜(3)「見えるもの見えないもの 全てをもう信じてしまう」
こんばんは。桐山もげるです。
「大好き柴田Side Road」第3回目です。
今日は複数の曲に表されている柴田さんの歌詞のモティーフに迫る話。
※この記事に詳細な肉付けをしてFANZINEに掲載したいと思っています。ここで紹介するのはアウトライン(概要)です。
RYUTist『ナイスポーズ』
本記事で言及しているRYUTistさん『ナイスポーズ』は下記Spotifyから聴けます。
Twitter上での交流で気づくことのできた内容です!
今回の話は、Twitter上で柴田さんの歌詞についてやりとりをさせていただいている、まいかさんの考察(下記リンク)にヒントを得ました。
#nikoand15周年 #ちむどんどん #柴田聡子 #上白石萌歌 #adieu3 https://t.co/ctqmRAACtJ
— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) August 31, 2022
上記のまいかさんのブログのなかに、僕のTwitterのつぶやきの内容をたくさん引用してくださっています。めちゃくちゃうれしいです!
お読みいただければ一目瞭然のように、考察の骨子はまいかさんご本人によるものです。この考察によって僕も大変刺激を受けました。本当に、ありがとうございます。
まいかさんとは、過去にも柴田さんの歌詞についての考察のやりとりをさせていただいています。まいかさんの考察のアプローチについて僕が敬服する点は「ことばに込められた意味」について可能性をせばめず、ものすごく広い視野をもって歌詞を解釈されていらっしゃること。
ちょうど、僕が歌詞考察の際にやりがちなアプローチ方法の「ひとつの手がかりを捉え、それが成り立つようなストーリーを無理矢理にでも考えあげる」とは対照的です。まいかさんの考え方と視野はとても参考になります。このように歌詞の考察について意見交換ができるというのは至福の極み。ぜひ、これからも多くの方と意見交換したいです!
『ナイスポーズ』に描写される「大人」
RYUTistさんに提供された柴田聡子さんが作詞・作曲を手掛けた『ナイスポーズ』は発売当初から大好きな曲です(ちなみに、発売された年である2020年の僕のAppleMusicの再生回数で最も多い曲でした)。
その曲の歌詞について、Base Ball Bearの小出祐介さんが2022年8月17日(水)にZIP-FMの番組「×music」内で大変わかりやすく、また感動的に紹介をされていました。
すごい歌詞は30分はかけないとすごさを説明できないので、通常3曲紹介するコーナーで、1曲を、しかも2回聴いてもらうというストロングスタイルでお送りしました。ぜひ聴いてください〜 https://t.co/4awuwiMA4f
— Base Ball Bear 小出祐介 (@Base_Ball_Bear_) August 17, 2022
小出さんがご解説をされた、この歌詞における技巧(「ここでこの場面に飛ぶのはめちゃくちゃすごいこと」というようなユニークな歌詞の流れ)が用いられている点や主題の捉え方についてのご解説は、ただただ感服いたしました。素人の僕には一生かかっても気づけなかった内容です。
その解説を聴かせていただいたおかげで、柴田さんの歌詞で「子ども」と「大人」を表現される際のある特徴に気づけました。
子どもの頃に見えていたもの/大人になって見えなくなったもの
小出さんが『ナイスポーズ』において、僕が『夏の限り』において荒井由実さんの『やさしさに包まれたなら』の歌詞を連想したように、これらの歌詞には共通した表現があるように思います。
それは、「子どもの頃、大人では感じることのできないものを感じていた(例:大人は見ることのできないものを子どもの頃は見えていた)」という表現です。
主人公は子どもと大人の間で揺れ動いている
さて、今僕は思いつくままキーボードを叩いてこの記事を書いています。FANZINEの記事のさわりのみを書くつもりが、FANZINEの記事相当のボリュームにになりつつある。ここからは、ふわっと概要のみにしなくては(いつもの強がりを言うと、FANZINEではこの記事以上に内容が充実する予定です。どうぞご期待ください)。
この解釈に辿り着いて他の歌詞を見渡すと、特にRYUTistさん、adieuさんに提供をされる歌詞において、「子どもと大人の間にいる主人公の物語」が表されているように感じます。
”ぎりぎりで青だった横断歩道”を”ためらって渡らなかった”とは
冒頭に引用させていただいたまいかさんのブログの最後の部分に”♪ぎりぎりで青だった横断歩道を渡らなかった私…という歌詞も気になります”とあります。『ナイスポーズ』の終盤にしてクライマックスの場面です。
かなり前後してしまったのですが、実はこのまいかさんの疑問が本記事を書こうと思い立たせてくれたきっかけでした。
僕もこの曲を聴いた最初の段階から、この描写は何を表現しているのだろう?と思っていました。今日、自分なりの答えを得ました。
”(ぎりぎりで青だった横断歩道を)ためらって渡らなかった私”は「大人になった主人公が子どもの気持ちを取り戻した瞬間」を表しているのではないでしょうか。
恐らく、最近の主人公は「点滅した青信号」をみると「急いで渡る選択をしていた」クルマが通ってなかったら、安全に渡れることを知っている(=経験を積んだ大人だ)からです。
しかし、この歌詞では”ためらって渡らなかった(=一瞬「渡ろうかなと思った」けど、渡らなかった)”わけです。つまり、この時の主人公は「一瞬、子どもの気持ちを取り戻した」のではないでしょうか。
その時”私”は何を考えたか
その時、主人公は何を考えたのでしょうか。
歌詞では”そうだ今だ!行くぞ!”と書かれています。
これは、
「そうだ、今写真を撮れば”子どものころに見えたもの”が撮れるかもしれない!」と思った。
ということではないでしょうか(ただ、カメラの持ち合わせがなかったのかこの場面では実際には写真をとってはいないようですが)。
僕がこう捉えた理由は、前半の歌詞にもヒントがあります。
”見えるもの見えないもの 全てをもう信じてしまう
こんな時がきたら 私はおどろいて立ち止まるはずだったのに”
”こんな時が来たら”は「子どもの気持ちを取り戻したとき」と捉えました。
また、”おどろいて立ち止まるはずだったのに”の後が省略されています。省略されていることばは「写真を撮った」ではないかと想像しました(補足すると、ここで写真を撮ったからこそその後の"心霊写真"につながると思います)。
主人公は、子どものころに見えていたものを、また見えるようになりたいと思っていた。そして見えたものをずっと覚えていたい。
だから、子どもの気持ちに戻った瞬間が来たら即「写真に撮る」という行動に移せる心の準備をしていたのではないでしょうか。それが、"そうだ今だ!行くぞ!"に、表されていると思います。
いかがでしたでしょうか。
「詳細ではなく概要の記事にしなくては」という気持ちも手伝い、意識して省略した部分もあります。ただ、言わんとしていることは伝わるのではないかと思いこのまま投稿しました(伝わらなかったら、追記も考えます。どうぞ遠慮なくご意見をください)。
では、今日はここまで。
次の記事でお会いしましょう!