お稲荷様に嫁ぎました!【同人誌サンプル】
私がその人と出会ったのは、小学校二年生の秋だった。
「悔しかったら取り返してみろ!」
同じ学年の男子――幸太が、私のランドセルから取ったキーホルダーを手に駆けていく。
「返して、返してって!」
それは、前の小学校で仲のよかった友達がお揃いで、別れるときに渡してくれたものだった。
少し前に都会から九州の片田舎に引っ越してきた私は、まったく周囲に馴染めずにいた。村にはコンビニなどなく、日用品から食品まで取り扱うスーパーという名の商店が一軒あるのみ。村の外に出ようにも、公共の交通手段は一時間に一本あるかないかのバスだけだ。一番近くのおしゃれな場所といえば、車で一時間以上かけて行く大型ショッピングセンターしかない。
「ほら、早く取り返さないと捨てるぞ!」
「ダメ! 返してっ!」
幸太は次第に山道へと入っていく。私もその後を必死になって追った。
引っ越した祖母の家が、古くて暗く、汚いのも私の不満のひとつだ。今なら味のある古民家だと喜べそうだが、小学生の私から見れば薄気味悪い家でしかなかった。電気を点けていても家の奥は暗く、そこになにかが潜んでいそうで私の恐怖を掻き立てる。この引っ越しが祖父を亡くしてひとりになった祖母を心配してのことだと理解はしていたが、不満しかなかった。あとから知ったが、そのときの母はパート先の人間関係からそれに付随する近所付き合いに悩んでおり、父はそんな母を思ってこの引っ越しを決めたらしい。まあ、そんな事情を知ったところで小学生の私は理解しなかっただろうが。
「返してって、それしか言えないのかよっ」
「大事なものなの! 返してっ!」
あと少しで届く、手を伸ばすものの幸太はひょいっとかわしてまた先へ進んでいく。
「なんで返してくれないの!?」
顔は汗と涙でぐちゃぐちゃ、散々走ったせいで呼吸も苦しい。それでもまだ、諦めなかった。
不満たらたらで引っ越した小学校は、全校合わせても二十人もいなかった。父は先生によく見てもらえるからいいだろ、なんて言っているが、嬉しいわけがない。しかも私と合わせてたったふたりしかいない二年生の幸太は、意地悪だった。お気に入りの服に泥団子をぶつけられたり、私の髪から取ったリボンでザリガニ釣りをしたり。そして今日は、大事なキーホルダーを奪われた。
「ほら早く……あっ」
「あっ」
指の先でくるくる回していたキーホルダーは幸太の指から外れ、飛んでいく。
「お、お前が早く取り返さないから悪いんだからな! オレ、しーらない」
「あっ」
幸太が私を押しのけ、その衝動で尻餅をついた。顔を上げたときには幸太の姿は遙か先にある。
「どうしよう……」
キーホルダーが飛んでいった先に目を向ける。そこはうっそうと茂った藪だった。
「探さないと……」
藪の中に入り、キーホルダーを探す。手足はすぐに傷つき、泣きたくなった。
「どこ、どこいったの?」
半べそで藪をかき分けて探す。が、それはどこにも見つからない。しかも夢中になって探すうちに森の奥深くに入ったのか、辺りは暗くなってくる。
「ここ、どこ……?」
気がついたときには民家どころか道すら見失っていた。しかも不意に、ガサッと藪が揺れて音がした。
「ひぃっ」
近くで動いたなにかが怖く、とにかく走って逃げる。走って走って……唐突に、どこかの家の裏に出た。
「え?」
山の中にこんな大きなお屋敷があるなんて聞いたことがない。けれどこれで家に帰ると安心した。
人を求めてうろうろする。裏庭のようなところでなにかしている、巫女のような姿をした女の人を見つけた。
「あの……」
「ひぃっ」
私が声をかけると彼女は袖で顔を隠し、一目散に逃げていった。
「どーしよー」
さらに人を探すか悩む。こんな大きなお屋敷だ、彼女ひとりだけということはないだろう。さらに奥に進もうとしたら。
「くせ者はどこだ!?」
ドタバタと数人、神主の普段着のような格好で狐の半面を着けた男がこちらへ駆けてくる。これで助かったと思ったものの。
「たたき切ってくれる!」
私を取り囲んだうちのひとりがスラリと刀を抜き、大きく振りかぶった。
「ひぃっ。……う、うわーん」
「……なんだ、騒々しい。ゆっくり本も読めやしない」
殺される、そう思った瞬間。その場に似つかわしくないほど、のんびりとした声が響いてきた。白シャツに黒パンツ姿の若い男は、まるで手品のように空中から狐の半面を出して嵌め、こちらへ歩いてくる。その男の登場に、目の前の男たちも、それを遠巻きに見ていた人々も一斉に道をあけ、恭しく頭を下げた。
「人の子など百年ぶりくらいか」
私の前に立った男は膝をつき、その長い人差し指で私の顔を上げさせた。
「ん? 宜生に泣かされたか。可哀想に」
「朔哉様!」
朔哉と呼ばれた男が片手で制し、怒鳴った男は口を噤んだ。
「どうした? 恐怖で声も出ないか」
楽しそうに目を細め、朔哉はくつくつと笑っている。
「……綺麗」
「ん?」
面の奥から私を見つめる瞳は、夜空のような群青と、満月のような金だった。それが、さらさらと揺れる黒髪と相まってとても美しく見えた。
「お兄ちゃん、凄く綺麗だね!」
「無礼だぞ!」
思わずぐいっと身を乗り出した私を男たちは取り押さえようとしたが、朔哉にまた制されて仕方なくやめた。
「そうか、綺麗か。……気に入った。傷の手当てをしてやれ」
「しかしながら!」
朔哉が私の頭をぽんぽんして立ち上がり、また周囲がざわめいた。
「……私の決めたことになにか異論があるのか」
冷え冷えとした彼の声で周囲の空気が一瞬にして鋭利なものに変わる。少しでも動いたら、皮膚が切り裂かれてしまいそうなほどに。
「……ありません」
「なら、よかった」
にっこりと朔哉が笑い、ほっとその場が緩んだ。
あきらかに嫌々だとわかる様子で、狐の半面をつけた女性が手足にできていた傷の手当てをしてくれた。
「その……」
「……」
「あの……」
「……」
手当てをしてくれた女性も、私を案内してくれる男性も、一言も話してくれない。ほかの部屋は和風なのに、通された部屋はお姫様が住んでいそうな洋風の部屋だった。
「腹は空いてないか」
返事をする代わりにお腹がぐーっと鳴った。朔哉にくすくすと笑われ、恥ずかしくて顔が熱くなってくる。朔哉が合図をするとすぐに、私の前にいなり寿司とお茶が置かれた。
「食べながらでいい。名前は? どこの子だ?」
ぱくっと食いついたいなりは、いつも祖母が作ってくれるものよりも揚げがずっとジューシーで、本当に頬が落ちそうだ。
「奈木野心桜だよ。夏休みにお祖母ちゃんの家に引っ越してきたの」
「奈木野の家の子か。そういえば修一に嫁いできた女には少し、力があったな」
長い足を組み、ソファーの背の向こうへ片腕を落とした朔哉は、きっと狐面がなければ絵本の王子様に見えるだろう。
「お祖母ちゃんを知ってるの?」
「まあな」
お茶を啜る朔哉は、酷く絵になった。思わずぼーっと、見とれてしまうほどに。
「ねえねえ。なんでお面なんかで顔を隠してるの? ないほうがいいのに」
「これか?」
彼の綺麗な右手が、面に触れる。
「……この下にはお前など、一目見ただけで気絶してしまうほど恐ろしい顔が隠されているのだ」
くっくっくっと喉の奥で、愉しそうに朔哉が笑う。それは本当に食ってしまわれそうで魂の底から冷え、ぶるぶると身体が震えた。
「……なーんて冗談だ。私も、ここのモノたちも、ある事情があって面が必要なのだ。絶対にふざけて外そうなんて思うなよ」
「……うん」
すっかり怯えてしまった私を、朔哉はおかしそうにくすくすと笑っている。どこまでが本気で、どこまでが嘘かわからず、とにかく面ことには触れないようにしようと誓った。
「そういえば、お兄ちゃんの名前は?」
食べ終わった皿を下げながら男にじろりと睨まれ、びくんと身体が震えた。けれど今度は男が朔哉に睨まれ手びくっと身体を震わせ、慌てて部屋を出ていった。
「御稀津朔哉だ。ここに住んでいる……変わり者だ」
朔哉はなにかを言いかけたけれど、こほんと咳をして誤魔化してしまった。
「いっぱいお家の人がいるんだね」
「まあな。住んでいるモノは多いが、私はひとりぼっちみたいなものだな」
淋しそうに笑う朔哉が、学校での自分に重なった。
「私と一緒だね。私、学校でひとりぼっちなんだ。そうだ、お兄ちゃん。私と友達にならない!?」
「お前と私が友達、……だと?」
私としてはこれ以上ない、いい案だと思っていた。いまにして思えば、大それた考えだけれど。
「ダメ?」
かくんと小首を傾げ再度きいてみる。朔哉はうっと、声を詰まらせた。
「ま、まあ、いいだろう」
「やったー」
私は友達ができたとうきうきだったし、黒髪の間からのぞく朔哉の耳も赤くなっていた。
送ってやると朔哉にひょいと抱えられた。屋敷の敷地を一歩出た途端に、真っ暗な森になる。朔哉が手のひらを上にしてふーっと息を吹きかけると、ぽっと蒼白い炎が灯った。
「なにこれ? 手品?」
「怖いか?」
「ううん、綺麗」
私の返事に、朔哉は嬉しそうに頭を撫でた。
ふわふわと飛ぶ狐火に取り囲まれて森の中を歩く。いくらも歩かないうちに人家の灯りが見えるところまできていた。
「ここから先に私は行けない。ひとりで行けるな?」
「うん」
私を地面に降ろし、視線を合わせるように朔哉はしゃがみ込んだ。
「それから。私に会ったことは誰にも話してはいけない。約束できるな」
「なんで?」
両親に話して、あとでお礼に来なければいけないに決まっている。なのに。
「お前が私のことを誰かに話したら、私はお前を殺さなければいけなくなる」
急に低い声で重々しく言われ、思わず喉がごくりと鳴った。
「……うん。わかった」
気圧されて私が頷くと、さっきまでの恐ろしい空気が一変して朔哉のそこだけしか見えていない口もとが、にっこりと笑う。
「いい子だ。じゃあ、約束しよう」
「うん」
差し出された小指に自分の小指を絡めて指切りする。なんだかそれがくすぐったくて嬉しかったけれど、あとからそれがどんなことが知って怖かった。
「いつでも遊びに来い。歓迎する」
「うん、また遊びに行くね。ありがとう、お兄ちゃん」
朔哉に背中を押され、一歩踏み出す。振り返ったときにはもう、朔哉の姿は消えていた。代わりに。
「おい、心桜ちゃんじゃないのか!?」
「怪我はないか!?」
数歩も歩かないうちに、私を捜していた大人たちに見つかった。暗くなっても私が帰らないから、幸太の話を元に山狩りをしたらしい。けれど、山頂まで三十分もかからない小山なのに、いくら探しても見つからない。山ではなく、人さらいにでも遭ったのではないかと捜索方法を切り替えようとしていた矢先、ひょっこりと私が出てきたらしい。私が見つかって両親は号泣していて、そんなに心配させたのかと驚いた。おかげで少しだけ、田舎に馴染む努力しようと思えた。それにこの件で幸太はがっつり絞られたらしく、ちょっとだけおとなしくなったし。
「朔哉ー、頼まれてた本、持ってきたよー」
森の奥へ向かって声をかける。途端に、まるで私を迎え入れるかのように、ぽぽぽぽぽっと奥から狐火が灯ってきた。それを辿っていくと唐突に屋敷の裏へ出る。待っていた狐の半面に神主さんの普段着のようなものを着た男、宜生さんに伴われて屋敷の中を進んだ。私が来たってわかっているから、そこらに人の姿はない。
「よく来たね、心桜」
私が来たのに気づき、朔哉は読んでいた本をパタンと閉じた。
「これ、『ronron』のシュークリーム。好きだったよね?」
「美味しいよね、ronronのシュークリーム!」
ぱーっと、お日様が照るみたいに朔哉の顔が輝く。そういうところ、ほんとに神様なのかなってちょっと疑わしくなっちゃう。
「お茶の準備をしろ。言わなくてもわかってるだろうが、紅茶だぞ」
「はっ」
短く返事をして部屋を出ていった宜生さんは、忌ま忌ましげにシュークリームの箱と私を面の奥からじろっと睨んだ。
「ごめんね、いつも」
「ううん、朔哉が悪いんじゃないから」
初めて朔哉に会った小二の秋から、十一回目の冬が来た。外は寒いのに、屋敷の周りは花が咲き乱れ春のようだ。ひょいっと朔哉に簡単に抱えられてしまうほど小さかった私も、ずいぶん背が伸びた。いや、今でも相変わらず、背の高い朔哉に簡単に抱えられてしまうが。そしてあの日から、朔哉の姿は変わっていない。その群青と金の瞳も、黒髪も。白シャツに黒パンツ姿も。――二十代半ばの、その見た目すらも。きっとこのまま私が年をとっても、朔哉はこのまま若々しいままなのだろう。
「あ、これ。頼まれてた本。経済学の本なんて難しいもの読むんだね。やっぱりお稲荷様だから?」
「んー? 商売繁盛のお願いも多いからね。勉強はしとかないと。まあそれに、単純に面白いからっていうのもあるけど」
「ふーん」
朔哉は嬉しそうにぱらぱらと受け取った本を捲っている。その姿は狐面がなければ、若い学者さんにしか見えない。
朔哉に頼まれてはたびたび、本や電化製品などを届けている。眷属の方に頼めば人間界のものも手に入るらしいのだが、なぜか希望のものが届かない。どうも皆様、お遣い下手なのらしい。なので私がちょいちょい頼まれるようになった。
「最近はスマホがあるから、便利になったけどね。これも心桜のおかげだよ」
私がスマホを持ちはじめて一番最初に頼まれたのは、使わなくなったスマホを譲ってくれだった。そんなものどうするのかと思ったけれど、神様の力で普通に使用できるらしい。最近は神様同士も、人気SNSのNYAINならぬCHARINを使っているんだって。しかもさ、充電いらずなんだよ!? ちょっと羨ましい。
そう、朔哉は人間じゃなく神様なのだ。あの山の奥は神様の世界に繋がっていて、力がある人間がたまに迷い込んでしまうという話だ。とはいえ私の前は百年くらい前だっていっていたけれど。
「失礼します」
少しして、宜生さんがお茶の支度をして戻ってきた。どうでもいいけど、お茶を注ぎながら親の敵みたいに、私を睨まないでほしい。いや、敵みたいなものかもしれないが。
「用が済んだならさっさと出ていけ。呼ぶまで来なくていい」
「はっ」
最後まで宜生さんは私を睨んだまま部屋を出ていった。
「ほんと、ヤになっちゃうよね」
はぁっ、と短く、朔哉の口からため息が落ちる。
「仕方ないよ」
本来、神様である朔哉と人間である私が、対等に口をきくなど赦されない。これは、朔哉が私を友達と認めてくれているからできることなのだ。わかっている、けれど最近はその埋められない立場の差が、――酷く苦しい。
朔哉は九州の稲荷神を束ねる立場の神様だ。朔哉曰く、九州本社の社長だと思ってくれたらいいよー、だ。なんだかわかりやすいんだかわかりにくいんだかの例えだけれど。そんな偉い神様と人間の小娘が友達だとかまず問題で。さらには私が朔哉の屋敷をうろつくと、実害がある。
「朔哉、その」
「あ、お手洗い? 宜生ー!」
「はい、ただいま」
朔哉が呼ぶと同時に、宜生さんが部屋に入ってくる。どうなっているんだろうとは思うけれど、考えちゃダメ。
「心桜をご不浄に案内して」
「かしこまりました」
宜生さんに伴われて部屋を出る。彼の案内が必要なのは屋敷が広いので迷うからとかじゃなく、――私が誰かと、会ってしまわないため。
神様およびその眷属の方たちは、人間に素顔を見られると消滅してしまう。だからあの日、唐突に現れた私に屋敷中がパニックになったのだ。消滅の危機となれば、仕方もないだろう。そういうわけで朔哉も、宜生さんも鼻までの狐の半面を私に会うときはいつも着けている。私が来るときは屋敷中に報せが回っているが万が一、素顔の人と鉢合わせするといけないので、屋敷では常に宜生さんか朔哉が一緒じゃないと行動できない。
「ありがとうございました」
部屋に戻った際、宜生さんにお礼を言ったけれど返事はない。いつもそう。彼は私と口をきいてくれない。もしかしたら、口をきいたら穢れるとでも思っているのだろうか。
「おふぁえりー」
朔哉は口いっぱいにシュークリームを頬張り、もごもごしていた。そういうとこ、ほんと可愛いんだよなー。いや、齢二百六十歳の神様に失礼だけれど。
「ほんと好きだね、ronronのシュークリーム」
「うん、大好き。……でも、これを食べられるのもあと少しかな」
「え?」
意味が、わからない。いつだって私は、朔哉のために届けるのに。
「心桜は三月の誕生日で十八になるんだよね?」
「そうだけど」
「じゃあこうやって会えるのは、あと三ヶ月だ」
なんでそんなことになるのか理解できない。私の誕生日がなにか、問題あるの?
「神が人間と会っていいのは子供のうちだけなんだ。大人になると会えない」
「そんな……」
朔哉との関係はこれからもずっと、私がお婆ちゃんになっても続くのだと思っていた。それなのに突然、そんなことを告げられても困る。
「……じゃあ私、大人にならない」
「心桜?」
「朔哉と会えないなら私、大人になんかならない! ずっと子供でいる!」
短くはぁっと朔哉の口から落ちたため息は困った子だねと呆れているようで、ますます意固地になった。
「大人になんかならなくていい。朔哉だったらずっと子供のままにできるよね!」
「……心桜」
両手で私の顔を挟み、朔哉が鼻を突き合わせていた。深い深い、夜の闇のような群青の瞳と、眩しく明るい、満月のような瞳が私を見ている。
「確かに、できるよ。でも心桜がずっと子供のままだったら、ご両親はどう思う? きっと、悲しむよね」
「……うん」
最初のうちはいいかもしれない。十七歳も二十歳も、その少し先だって変わらなくてもわからないだろう。でももっと先は? 周りはどんどん年をとっていくのに、私だけ若い、十七歳のままだったら?
「……ごめん」
「うん」
朔哉の手が、私の頭をぽんぽんする。それは初めて会ったあの日と変わらず、優しい。
「私だって心桜と会えなくなるのは淋しいよ。一瞬、心桜をお嫁さんに迎えようかとか考えてしまうくらいに」
「え?」
いま、お嫁さんとか言った? いや、それはなんというかこう、……うん。顔が熱くて上げられない。朔哉も照れているのか、視線を外していた。
「でも、大人になったらダメなんだよね?」
「結婚するんだったら話は別。婚姻によって心桜は神に連なるものになって、ずっと一緒にいられる。ただし……」
「じゃあ私、朔哉と結婚する!」
「……はぁーっ」
朔哉の口から落ちたため息は、深く重かった。
「話は最後まで聞くもんだよ。……ただし、人間の世界は捨てなければならない。友達はもちろん、ご両親にも二度と会えない。そんなこと、できないだろう?」
すべてを諦めた顔で朔哉が笑う。その顔にまるで張り裂けてしまったかのように胸が痛んだ。
「捨てる、人間の世界。お父さんとお母さんにもう会えなくたっていい。だから朔哉と、結婚する」
「こんな大事なことを、そんなに簡単に決めるものじゃないよ」
朔哉の声はまるでだだっ子を宥めるようで、ますます私は意地になった。
「簡単になんて決めてない! お父さんとお母さんに会えないのはつらいよ? でもそれ以上に、朔哉に会えなくなったら私、死んじゃう……!」
泣きたくなんかないのに涙が出てきて、ぐいっと思いっきり拭う。
「困ったな。そんなに心桜が私を、愛してくれているなんて知らなかった」
「愛して、る……?」
言われた意味がわからない。朔哉のことは好きだ。いま初めて、離れたくないくらい好きなんだと気づいた。でも、愛しているって……?
伸びてきた手が、そっと私を抱きしめる。
「心桜は私をそれだけ深く愛しているから、会えなくなると死んじゃうんだろう?」
ああそうか。それだけ朔哉が好きだから、人間の世界を捨てるなんて私は即決できたんだ。
「朔哉が好き。世界の全部を捨てたって、朔哉と一緒にいたい」
「心桜は本当に可愛いな。そんなに可愛いと……逃がせなくなる」
面の向こうから朔哉がじっと私を見つめる。視線は射貫かれたかのように髪の毛一本分もずらせない。
「私と結婚すれば人間の世界を捨てなければならない。もちろん、ご両親とももう二度と会えない。それにどんなにつらいことがあっても、神の世界では人間の心桜に手を貸すものなど誰もいない。……それでも本当にいいんだな」
厳しい朔哉の声に、喉はからからに渇いていた。空気はぴんと張り詰めたものへと代わり、呼吸さえも憚られる。これが……神としての朔哉。
「……は、い」
たった二音を口にするのでさえ、酷く神経を使った。神に嘘はつけない。――ついてはいけない。
「……わかった」
ゆっくりと朔哉の顔が近づいてくる。私のシャツをずらして首もとを露わにさせ、朔哉はそこに――噛みついた。
「……っ」
「契約の印だ。これで心桜は私から逃げられない」
まるで恐ろしいものを見るように、いや、実際に神としての朔哉は恐ろしかったのだ――顔を見上げる。視線のあった朔哉は、口もとを綻ばせ、ふっと笑った。途端に空気はいつものものへ一気に戻る。
「そう怯えなくていい。私は心桜を守って絶対に幸せにするから」
朔哉の手が頬に触れ、意図がわかって目を閉じた――ものの。
「あ」
私の鼻にぷにっと朔哉の面が当たってしまい、おかしくてふたりで笑いあった。
……続きは本編で。