【小説】俺とキス、試してみる?
コーヒーを飲みながら雑談をしている、同僚の彼を見て私が考えていたのは。
……キス、したい。
だった。
いや、これだと私が欲求不満みたいだが、……まあ、そうかもしれない。
彼氏がいたのなんてもう遠い昔の話だし。
しかし彼にこんな感情を抱くとは。
一つ年上の彼は頼もしい先輩であると同時にライバルだ。
とはいえ、私が一方的に思っているだろうけれど。
……〝顔〟は間違いなくいいよね。
短めに切られた黒髪を七三分けにし、ナチュラルに左に流している。
柳のような切れ長な目、鼻筋だって通っている。
それでなくても整っている顔を、細い銀縁のスクエア眼鏡がさらに引き立てていた。
ん?
キスするときにあの眼鏡は邪魔じゃないんだろうか。
いや、私が奴とキスするとかありえないから関係ないけれど。
……スタイルもいいか。
背が高く、手足が長い。
ややもすれば机の下で足が窮屈そうだ。
さらにスーツがよく似合う。
きっと、社内一似合っている。
……んで、あの唇がさー。
薄いけれど、形の整った唇は魅力的だ。
いままであの唇で何人の女性とキスをしてきたのだろう?
なんて考えてムッとしている自分に気づき、苦笑いしてしまう。
これではまるで、私がヤキモチを妬いているみたいだ。
「ん?」
視線に気づいたのか、彼が私の方を見て眼鏡の奥で一度、まばたきをした。
瞬間、傍にあったクリアファイルを掴んで顔を隠す。
これじゃバレバレだと思っていたら案の定、すぐに後ろからファイルを奪われた。
「今、俺のこと、見てただろ?」
怖くて後ろは振り返れない。
小さく縮こまり、机の上に正解を探す。
「見てない、見てない」
「……お前の考えてたこと、当ててやろうか」
頭上から降ってきた声で、びくりと身体が固まった。
「……俺とキス、したい」
熱い吐息が私に耳朶をくすぐる。
おそるおそる見上げると、レンズ越しに目のあった彼が右の口端だけを上げてにやりと笑った。
「当たりだろ」
「いや、違うし」
口では否定しながらも、こんなに熱い顔じゃ誤魔化せない。
「素直じゃないな」
彼の手が私の脇の下に入り、強引に立たされた。
「えっ?
は?」
「ここじゃさすがにマズいだろ」
私の肩を押し、彼は歩いていく。
連れてこられたのは給湯室だった。
「で。
俺とキス、試してみる?」
私の顎を掴み、無理矢理視線をあわせさせる。
レンズの向こうからは愉悦を含んだ目が私を見ていた。
「あ、いや、……遠慮します」
キスしたいなんて思ったのはきっと気の迷い。
このところ忙しくて疲れていたせい。
恋愛感情のない相手と、キスなんてできるはずがない。
「俺は試してみたい」
なぜか彼が空いた手で眼鏡を外す。
傾きながらゆっくり近づいてくる顔を間抜けにもぽけっと見ていた。
あの形のいい唇が私の唇に柔らかく触れて、離れる。
「目ぐらい閉じろよ」
瞼に口付けが落とされ、反射的に閉じる。
すぐにまた、唇が重なった。
感触を楽しむように何度も啄まれ、切なく吐息が落ちる。
その隙を見計らってぬるりと彼の舌が侵入した。
驚いて縮こまったのは一瞬で、すぐに彼を求める。
……キスってこんなに、気持ちいいものだっけ?
あたまの芯が甘く痺れていく。
彼以外のことが考えられない。
……私、別にこいつが好きとかないはずなのに。
けれど心臓はまるで恋に落ちたかのようにどきどきと速く鼓動している。
縋る場所を求め、手は彼のスーツの襟を硬く掴んでいた。
「……」
唇が離れ、少しのあいだ見つめあう。
初めて素で見る彼の瞳は熱かった。
私から移ったグロスを見せつけるように指で拭う彼が艶っぽくて、つい目を逸らす。
「……やっぱり、キスするときに眼鏡は邪魔なんだ?」
いま聞くのはそれじゃないとわかっているが、それしか出てこなかった。
「いや?
あっても別に邪魔じゃないが、本気ちゅーをするときはないほうが集中できるからな」
「本気ちゅーって……」
眼鏡をかけた彼が、にやりと右の口端だけを上げて笑う。
お試しのはずが、最初からがっつり食う気だったのか、こいつは。
「で、どうだったよ?
俺とのキスは」
「あー、……キモチヨカッタ」
正直に言うのは恥ずかしくて片言になる。
でも、ひさしぶりにときめいた。
なんか女子としての活力が戻ってきたというか。
「それはよかった」
くすりと笑い、彼は私のせいで乱れた襟を整えた。
「あー、うん。
ありがとう」
お礼を言うのはなんか違う気がするが、そんな気分だからいい。
「俺でよかったらいつでもキスしてやるけど?」
「は?」
さすがに、それはなにを言っているのか理解できなくて彼の顔をまじまじと見ていた。
「俺としてはお前とキスするのはよかったので、これからもキスしていい」
「いやいや。
そもそもあんたは好きでもない相手とキスをするのか?」
いまさら、だとは思う。
けれどもしそうだとしたら、軽蔑するけど。
「それはお前だって一緒だろ」
「それはあんたが強引に……」
半ば無理矢理だったとはいえ、拒まなかったのは私だ。
「俺はお前だからキスしてみたいと思ったというか……」
「は?」
後半は彼らしくなくごにょごにょとよく聞き取れない。
「好きとかはまだわからないが、キスしてみたいと思うくらいには気になっている」
さっきまでの強引さはどこへいったのか自信なさげに申告され、微笑ましくなった。
「ねえ。
キスからはじまる恋ってあると思う?」
「あるんじゃないか?
現に俺はお前にキスしてから、ずっとどきどきしてる」
彼も私と同じ気持ちだった。
だったらきっと、上手くいく。
「じゃあとりあえず、付き合ってみる?」
【終】