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清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる【同人誌サンプル】


清子さやこ。明日のゴルフ、キャンセルお願いできるか」
「はい、承知いたしました」
 二歩前を歩く御子神みこがみ社長に返事をし、頭の中に言われたことを書き留める。
「御子神社長と河守かわもりさんよ」
「河守さん、今日もお美しい」
 社内を私たちふたりが歩けば、視線を集めた。まあそれも、仕方ないと思う。少し前にある御子神社長の顔をちらり。軽くパーマをかけてラフに掻き上げたビジネスショート。細面な顔には切れ長な目がよくあっている。さらに黒メタルの縁なし眼鏡がその顔面偏差値を爆上がりさせていた。しかもスーツが彼のために作られたものかのように似合っている。細身ではあるが、ほどよく筋肉のついたしなやかな身体なのは知っていた。そんな彼が、女子スタッフの憧れの的なのは当たり前だろう。
 一方の私はといえば、長い茶髪を僅かに甘さを感じさせるお団子にし、薄いピンクのスーツ姿。メイクは薄く、ナチュラルに見えるように。他人からは。
「河守さん、どこかのご令嬢って噂、本当なのかな?」
「もう、御子神社長と河守さんてお似合いのふたりよね」
 ……などと見られ、噂されていた。
「それから。……少し、顔色が悪いぞ。調子が悪いんじゃないか」
 急に足を止めた社長が、振り返って私の顔をのぞき込む。そのかけている眼鏡の向こうを、ついまじまじと見ていた。
「いたって通常どおりですが」
 とか答えつつも、昨晩はとある事情で少々寝不足だった。誰にも悟られていないのに、御子神社長は気づくなんて。
「なら、いいが。清子に倒れられると困るからな。無理をするなよ」
 彼が指先で軽く私の額を弾いた瞬間、周囲から小さな悲鳴が上がった。僅かに痛む額を少しだけ押さえ、再び歩きだした彼を追う。
 ……ああいうのがいいんだ。
 悲鳴の意味はわかっていたが、これがそれほどまでのこととは私にはまったく理解できなかった。
 私、河守清子はLCC航空会社、『チェリーエアライン』で社長付の秘書をしている。上司であり社長の御子神彪夏ひゅうがさんは、親会社である『桜花おうかホールディングス』社長の息子だったりする。ちなみに桜花ホールディングスとは、国内第二位の『桜花航空』を中心とした企業グループだ。
 今日は訪問先から直帰だった。
「どこかで食事して帰るか」
 普通は秘書か、お抱えの運転手が運転するところなんだろうが、御子神社長は大抵自分で運転する。運転自体が好きなんだそうだ。
「よろしいんですか」
「ああ。清子はちゃんと食事してるのか心配になるほど細いからな。いっぱい食べさせて太らせないといけない」
 意味深に私側の目を社長がつぶってみせる。それにどきどきしたかといえば、食費が浮いて助かるなくらいしか考えていなかった。
 御子神社長が連れてきてくれたのは、天ぷら屋だった。正直に言えばパンのお持ち帰りができるフレンチがいいが、奢ってもらうんだから文句は言わない。
 サクサク揚げたて天ぷらをつまみに、日本酒を飲む。
「うまいか?」
「はい、美味しいです」
 眼鏡の向こうでうっとりと目を細め、さらにお猪口へ社長がお酒を注いでくれる。
「そうか。ならよかった」
 ふふっと嬉しそうに小さく笑い、御子神社長が天ぷらを口に運ぶ。先程からまるで恋人同士のような感じだが、私たちは断じてそんな関係ではない。あくまでも社長と秘書、なのだ。それ以上の感情なんてまったく、ない。きっと私と同じく御子神社長も、周囲の期待に応えてそういうふうに振る舞うのが楽しいだけなんだと思う。
「おい、大丈夫か?」
「あ、……すみません」
 いつもと同じくらいしか飲んでいないはずなのに、店を出る頃には足下がふらついていた。寝不足に日本酒がまずかったのかもしれない。
「送っていく」
「……いえ、ご心配はご無用ですので……。タクシーに乗せてもらえれば……ひとりで帰れます……から……」
 とか言いつつも、頭がふわふわして意識が飛びそうになる。
「そんな状態なのにひとりでタクシーとか乗せられるわけないだろ。送るから……って、おい!」
 ふらりとよろけた私を御子神社長が支えてくれる。ぽすっと額が彼の胸につき、セクシーだけれどどこか甘い香りに包まれた。そこで記憶が途絶えている。

 目が覚めたら知らない部屋だった。しかも私は下着姿で、隣には御子神社長が眠っている。
 ……これはヤってしまったってヤツですか?
 しかし、いくら考えても記憶がまったくない。あれって、……わからないものなんだろうか。けれど、経験のない私がいくら考えようと、わかるわけがないのだ。
 悩むだけ無駄なのでそろりとベッドを出て、服を探す。それはきちんとハンガーに通し、近くの扉にかけてあった。そういうのはやはり、育ちなんだろうか。手早く着替え、社長を起こさないように部屋を出た。リビングは何度か来た見覚えのある場所で、やはりここは御子神社長のマンションらしい。ソファーの上に置いてあったバッグを掴み、部屋を出る。あとのことは今考えない。今日明日は休日だし、二日休みを挟めば忘れてくれる……とかはないか。
 最寄り駅から十五分歩き、二階建ての古いアパートが見えてくる。その一階の角部屋が私の住んでいる部屋だ。――そう。会社ではご令嬢などと噂されている私だが、実は〝超〟がつく貧乏。会社でのあれは周囲の期待に応えて、そう演じているだけなのだ。
「えっ、あっ、あれ? 鍵が、ない」
 部屋の前で鞄の中を探るがいくら探しても鍵が見つからない。どこかで落とした?どうしよう。
さやねぇ、朝帰りかよ」
 焦っていたら中からドアが開いた。顔を出した一番上の弟、健太けんたが呆れ気味にため息を落とす。健太には……というか、実家には合い鍵を渡してある。
「あっ、えっと、ほら、姉ちゃんだって一応、大人だしぃ?」
 言い訳をしながら、十も年下の弟相手に語尾が不自然に裏返る。
「まあ、いいけどよ。それにそのほうが返って安心するし」
 高校生の弟から朝帰りを咎められるどころか安心されるって、私ってどういう姉なんだ?
 部屋の中では一番下の妹がすやすやと眠っており、横ではその上の弟が絵を描いていた。
「悪いけど清ねぇ、のぞみ美妃みき、預かっててくれない? 母さん、風邪気味みたいだから休ませたいし」
「了解」
 健太がインスタントコーヒーを入れて渡してくれる。本当によくできた弟だ。義母の真由まゆさんは身体があまり強くなく、季節の変わり目などはよく体調を崩していた。ここ二、三日、急に温かくなったし、身体がついていっていないのだろう。
「健太はどうするの?」
 流しに寄りかかり、渡されたコーヒーを飲む。
「俺は学校行って作業してくる」
 ちらっと健太が視線を向けた先には、大きな袋が置いてあった。
「いつもすまないねぇ」
「それは言わない約束だろ」
 ふざけたら、笑いながらバンバン健太が背中を叩いてくる。健太の特技は服作りで、いつも安く古着を仕入れては私たちに服を作ってくれた。ちなみにこのスーツも健太が古着を改造してくれたものだ。
たくみまことは?」
 巧は健太の下の弟。真はさらにその下の弟だ。
「巧は図書館で勉強するって。真は学童のあと、友達とサッカーするって張り切ってたな」
「なら、いいけど。……これでお昼、なんか食べな」
 財布から千円札を引き抜き、健太へ渡す。けれどそれは、押し返された。
「清ねぇ、いつも言ってるだろ? 毎月入れてくれるお金だけで十分だって。清ねぇだってカツカツなの、わかってるんだからさ」
 この春に高校生になったばかりの弟に気を遣わせてしまい、返す言葉がない。給料は最低限の生活費を残し、あとは実家の生活費と健太たちの将来への貯蓄へと回していた。
「……いいから、もらって。健太だってたまには、友達とハンバーガー食べたりしたいでしょ?」
 それでも無理矢理、健太にお金を握らせる。実家が貧乏なのは父のせいだ。父の特技は行方不明になることで、ほとんど家に帰ってこない。当然、お金だって滅多に入れてくれなかった。それは私の母の生前からそうで、なのに真由さんとの結婚を阻止できなかった自分を、ずっと責めていた。
「清ねぇ……。わかった、もらっとく」
 お金を受け取り、健太が笑ってくれてほっとした。
 健太が出ていき、美妃の様子を見てから手早くシャワーを浴びた。私には母違いの五人の弟妹がいる。一番上がさっきの健太、高校生になったばかり。その下が巧で同じく高校一年生。同じ学年といっても双子ではなく、健太が四月生まれで巧が三月生まれだから。その下で真ん中が小学五年の真。さらにその下の望は五歳で、唯一の妹である美妃はまだ生後五ヶ月だ。
 美妃の泣き声が聞こえてきて、慌てて浴室から出る。
「はいはい、ちょっと待ってねー」
 適当に拭いて髪は濡れたまま、下着姿で傍に膝をつく。
「おむつかなー」
 どうもそうみたいで、手早くおむつを替える。もう五人目となれば手慣れたものだ。
「ミルクもそろそろだよねー」
 雑に髪を拭き、ようやく服を着る。健太がポットにお湯を入れておいてくれてよかった。本当によくできた弟だ。手早くミルクを作り、美妃に飲ませる。
「さやねぇちゃん」
「ん? どうしたの?」
 ちょいちょいと服を引っ張られ、見たら望が立っていた。
「おなか、すいた」
「あー、そうだよねー」
 言った途端に私のお腹が鳴る。朝食を食べないままもうお昼になろうとしていれば、そうなるだろう。
「ちょっと待ってねー。美妃にミルクあげたらなんか作るから」
「うん!」
 元気いっぱい頷き、望は持ってきた車のおもちゃで遊びはじめた。あれも健太の代からのだから、そろそろ新しいのを買ってあげたいな。
 最近は起きている美妃をひとりにしておくとなにかと危ないので、おんぶ紐で背負って昼食を作る。
「オムライスでいいー?」
「うん! さやねぇちゃんのオムライス、だーいすき!」
 これくらいで喜んでくれるなんて、本当にお手軽で助かる。アンケートサイトの報酬入ったら、新しいおもちゃを買ってやろう。
 冷蔵庫で材料を集め、切っていたらドアがノックされた。今、忙しいのに……と心の中で文句を言いつつ、玄関へと向かう。
「はい」
 ドアを開けたところで固まった。相手も当然ながら固まっている。
 ……どうして、御子神社長がここに?
 互いに状況が掴めないまま硬直した時間が過ぎていく。それを壊したのは、御子神社長だった。
「……子持ち、だったのか?」
 いつも言われる、私にとっては地雷の台詞につい、プチッとキレた。
「誰が子持ちよー!」
 私の右手が社長の頬にクリーンヒットし、バッチーン!と痛そうな音が辺りに響き渡る。
「……いてぇな」
 社長がズレた眼鏡を直したのを見て、我に返った。赤子を背負っていれば、子持ちに間違われてもおかしくない。しかもそれくらいで社長に平手打ちを食らわせてしまうなんて。
「あっ、す、すみません……!」
 とりあえず、頭を下げて謝った。しかしこの状況、どう回収していいのかわからない。必死で頭を回していたら、頭上からため息が降ってきた。
「とりあえず部屋、入れてもらえるか? 視線が痛い」
「あっ、そう……ですね」
 曖昧に笑い、社長を部屋へ上げる。私の叫び声で、他の部屋の人が出てきていた。
「ひとりじゃなかったのか」
 望の顔を見て、御子神社長が驚いた声を上げる。
「だから。私の子供じゃないですって。弟と妹です」
「ふーん、こんな年の離れた弟妹がいたのか」
 興味なさげに言い、テーブルを挟んで望の前に社長が座る。望は知らない人の登場で、怯えたように私の後ろに隠れた。
「さやねぇちゃん、このひと、だあれ?」
「んー、お姉ちゃんの会社の人」
 望は人見知りが激しいのだ。なのに、社長を部屋に入れたのは失敗だったかも。
「はじめまして、ええっと……」
「望です」
「望くん」
 にぱっと社長が笑いかけたが、望はますます私の後ろに隠れた。
「それで、どのようなご用件ですか」
 袋に入れた氷とタオルを社長に渡し、早く用事を済ませてお引き取りいただきたいので、お茶も出さずに本題を切り出す。
「ああ。これ、忘れていっただろ?」
 御子神社長がテーブルに置いたのは、うさぎのあみぐるみがついた鍵だった。それは健太が私のために作ってくれたもので、間違いなくこの部屋の鍵だ。
「ありがとう……ございます……」
 そろりとそれを手もとに引き寄せる。御子神社長のマンションに忘れていっていたのか。大失態だ。
「さやねぇちゃん……」
 そっと望に服を引っ張られて振り返る。そうだ、昼食を作っている途中だったのだ。お腹が空いているはず。
「ごめんね、望。すぐにごはん作るから待っててね」
「……うん」
 頭を撫でてやったら、望は少しだけ笑ってくれた。のはいいが、さっきからおかまいなしに私の髪を引っ張って遊んでいる美妃は、どうにかならないかな?
「すみません、これから昼食なので用も済んだのなら……」
「まだ話は済んでないぞ?」
 意地悪く、右の口端をつり上げて社長がニヤリと笑う。これ以上は突っ込ませずに帰ってもらおうと思ったのに、そうはいかないらしい。
「なんなら、弟妹も一緒に昼食を食べに行ってもいいが」
「あ、いえ。それはけっこうです」
 いつもなら食費が浮くと大喜びで飛びつくところだが、この状況では遠慮したい。それに、五歳児と0歳児連れでワンオペ外食は大変だしね。
「先に弟にごはんを食べさせていいですか? 話はそれから」
「ああ、かまわない。俺のせいでこんな小さな子が腹ぺこで待たされるとか可哀想だからな」
 両腕を組み、社長はうんうんと頷いている。そのあたりの常識のある方でよかった。
「ありがとうございます。望、これ観てまっててね」
 テレビを操作し、録画してあった飛行場の裏側番組を再生した。
「うん」
 頷いた望はすでに、食い入るように画面を見ている。望は飛行機、とくに整備の番組が好きなのだ。集中しすぎてちょっとテレビに近いが……まあ、今はいいや。
 望がテレビに夢中になっているのを確認し、台所に立って料理を再開した。もう材料はほぼ切ってあったので、手早くチキン……魚肉ソーセージライスを作る。
「なんだお前、飛行機好きなのか」
「うん」
 若干、社長の声が嬉しそうなのはやはり、自社が航空会社だからだろう。そして望の声が上の空なのは、それだけ集中しているからだ。
「よし、じゃあこれをやろう」
 なにを渡す気なのか玉子を混ぜる手は休めずに振り返って確認する。社長が手にしていたのは自社ノベルティである飛行機のキーホルダー、ただし非売品だった。あれくらいなら断る理由はないので、調理を続行する。
「ほんとに?」
 声の調子から、望が目をキラキラさせてそれを見ているのがわかった。
「ああ」
「ありがとう、おじちゃん!」
「おじ……」
 おじさん扱いされてショックを受け、顔が引き攣っている社長が容易に想像できる。思わず笑いそうになったが、なんとか耐えた。
「……清子。てめぇ、笑ってるだろ?」
「いえ、笑ってませんが?」
 平然と振る舞いつつも、声が震えないか気を遣ってしまうが。しかし、もう三十三歳なんだから、望から見れば立派なおじちゃんだ。
「できたよー」
 できあがったオムライスをふたつ、テーブルの上に置く。社長にはインスタントで申し訳ないがコーヒーを出した。
「うまそうだな」
 などと言われても、社長の分はない。
「俺も食べたい」
「え……」
 まさかの言葉が出てきて戸惑った。だって、あの桜花航空の御曹司だよ? 自分だって億稼いでいるんだよ? それが、オムライス、しかも一般人の作ったものを食べたいなんて言うと思う?
「俺の分も作ってくれ」
 しかし社長は私の顔を見て、人懐っこくにぱっと笑った。
「ええっと……。お口にあうとは思えませんが……」
 食べてまずいとか言われたら嫌だし。それに、残されて食材を無駄にするのは絶対に避けたい。
「なんだ、俺には作ってくれないのか?」
 やんわりと断ったら、みるみる社長がご機嫌斜めになっていく。
「でも……」
「あー、誰かに叩かれた頬が痛いなー」
 それでも渋っていたら、もう外していた氷をわざとらしくまた社長は頬に当てた。
「うっ。……作りますよ」
 渋々ながら立ち上がり、また台所へ向かう。ああやって脅してくるなんて、卑怯だ。
 余りは冷凍すればいいと残りご飯を全部ケチャップライスにしていたので、あとは玉子を巻くだけでよかったのは幸いだった。手早く調理して、社長の前に出す。
「どうぞ」
「おー、うまそーだーなー」
 ほくほく顔で社長がスプーンを取る。私もかまわずに食べはじめた。
「うん、うまい! なあ、望もそう思うだろ?」
「さやねぇちゃんのオムライスはせかいいち、おいしいんだよ!」
「そんな……。褒めてもなにも出ないですよ?」
 ふたりから褒められて悪い気はしない。一瞬、どうして御子神社長がここにいるのか、忘れそうになった。いかん、いかん。
 食事も終わり、うとうとしはじめた美妃を布団に寝かせる。望は先程の番組にまた釘付けだ。
「鍵を届けていただき、ありがとうございました。でも、どうして私の家が?」
 貧乏バレ予防のために、今まで一度も家まで送ってもらわなかった。なのにどうしてここがわかったんだろう?
「一応、直属の部下の分くらいは住所は頭に入っているから、わかる」
 ドヤ顔で、大きな手で覆うように眼鏡を上げる社長を、なんとも言えない気持ちで見ていた。そういえば、全スタッフの名前は頭に入っているとかいつも言っているが、もしかして本当……?
「しかし、清子がこんな貧乏暮らしをしているとは思わなかったぞ。うちの給料はそこまで低くないはずだがな?」
 社長の疑問はもっともだ。仮にも桜花グループに属する会社、しかもLCCとしては国内最大手。さらにその会社の社長付の秘書ならばそれなりの給料はもらっている。
「あー、家族が多くてですね……」
 力なく笑って誤魔化しながら、視線が明明後日の方向を向く。この話題にはあまり、触れないでほしい。
「だいたい、両親はどうしたんだ? まさか、清子がこのふたりを育ててるのか?」
 眼鏡の向こうで社長の目が大きく見開かれる。
「えっと……。当たらずとも遠からずというか……」
 休みの日はもちろん、平日も帰りに実家へ寄って面倒を見ることもある。最近は健太も巧も大きくなっていろいろできるようになり頼もしくなったとはいえ、まだまだ義母ひとりだけでは危なっかしい。
「ちょっと待て。確認していいか? 清子のご両親はご存命なのか?」
 その長い指を額に当てて少し考えたあと、さらに社長が聞いてくる。それは確かに、確認したくなるだろう。
「その、実母は幼い頃に他界しました」
「それは……すまない」
 聞いてはいけないことだったのではと、正直に詫びてくる社長はいい人だ。いや、それは前から知っているけれど。
「いいんです。弟妹の母親、私にとっては継母……ですか。彼女は元気といえば元気なんですが、身体が強くないのであまり働けないんです。それに美妃を産んでまだ、五ヶ月しか経ってないですし」
「それは大変だな。父親は?」
「父は……」
 あの父を、どう説明したらいいんだろう? 常識から離れまくり、常人では理解のおよばないあの父を。
「いや、いい。わるいな、こんな話をして」
 私が言い淀んでいたせいか、社長はなにか誤解しているようだ。いや、実際のところ、私の中ではそのような存在なので問題はないか。
「それで清子が家族を支えているんだな。とりあえず会社から扶養手当が出るように手配しよう」
「ありがとうございます」
 御子神社長の眼鏡の陰に、光るものが見えるのは気のせいだろうか。それでも収入が増えるのは嬉しいので、素直に頭を下げておいた。
「他にも俺にできることがあったらなんでも言ってくれ」
 なにか彼の感動スイッチを押してしまったようだが、これであと三人弟がいるとか知ったら、どうなるんだろう……?
「清子の家庭の事情はわかった。しかし、それとこれとは別の話だ」
 私にぶたれた頬に触れ、わざとらしく痛そうに社長が顔をしかめる。
「目が覚めたら清子がいないわ、家に行ったら子供を背負って出てくるわ、しかもいきなりひっぱたかれるわ、俺がどれだけ傷ついたかわかるか?」
「うっ」
 逃げるように帰ったのは悪かったかなー、とは思う。でも美妃を背負って出たのは不可抗力だよね? それでも反射的にひっぱたいたのは……全面的に私が悪い。
「す、すみません、……でした」
 平身低頭、御子神社長へ詫びる。
「しかも、深窓の令嬢だと思っていた清子が、こんな貧乏人だったとはな。まんまと騙されたよ」
 ははっと小さく笑った社長は、呆れているのかバカにしているのか判断がつかなかった。
「……すみません」
 床に頭を付けたまま、硬く唇を噛む。だから、バレるのが嫌だったのだ。なのに、こんな些細なことでバレるなんて。
「それで、詫びになると思ってるのか?」
「お、思ってません……けど」
 なにを要求されるのか怖くて、顔を上げられない。お金なんて私にはないし、……身体? 好きでもない人間に抱かれるのは嫌だが、それくらいなら我慢……できる……かな? いや、昨晩意識がないあいだにもうどうこうなっている可能性もあるわけで、なら二度目なんてなんとも……。
「清子。……お前、俺の婚約者になれ」
「……は?」
 言われた意味がわからず、まじまじと彼の顔を見ていた。
「俺の親がしつこく見合いを勧めてくるのは知ってるだろ?」
「……はい」
 それはいつも彼が愚痴っているから、知っている。それがこれとどう関係が?
「社内はいいが、パーティとかで女が群がってくるのも知ってるな?」
「……はい」
 会社関係のパーティは同伴するので、いつも御子神社長が女性に囲まれているのはもちろん目撃している。これは自慢、自慢なのか?
「でも俺には心に決めた女がいるから、結婚する気はないんだ。だから女除けに清子、俺の婚約者になれ」
 強い目力で眼鏡の奥から御子神社長が私を見据える。それについ、はいと言ってしまいそうになったが、かろうじて踏みとどまった。
「心に決めた女性がいるのなら、その方に頼めばいいのでは……?」
 私なんかに頼まずとも、その方に結婚を申し込めばいいだけだと思うんだけれど、間違っている?
「だからお前に……げふん、げふん」
 急に咳払いなんかして誤魔化してきたが、なにを言いかけた? まあ、どうでもいいけれど。
「その女は残念ながら、俺のことなんてアウトオブ眼中なんだ。気を引く努力もいい加減疲れたし、それに弱みも……ん、んんっ」
「風邪……ですか?」
 またしても社長が咳払いをする。そういえば昨晩は裸で寝ていたようだったし、風邪を引いたのでは? もう桜は散ったとはいえ、たまに寒い日があるしね。
「ああ、うん。喉の調子がちょっと悪くてな」
 ちょっと困ったように彼が笑い、心配になってきた。
「無理はしないほうがいいですよ。そうだ、生姜湯入れますね」
「ああ、ありがとう……」
 立ち上がった私を社長が微妙な顔で見ているが、なんでだろう?
「どうぞ」
「ありがとう」
 残っていた生姜湯を入れて御子神社長に出す。ついでに望にもココアを入れてあげた。美妃はすやすやと眠っていて、本当に助かる。
「それで、だ」
 生姜湯を飲み、改めて社長が話を切り出す。そういえばなんの話をしていたんだっけ? 婚約者になれとか言われたような……。
「清子、俺を叩いた詫びに、婚約者になれ」
「えー」
 何度言われたって納得できるはずがない。
「なんだ、その嫌そうな顔は?」
 じろっと眼光鋭く眼鏡の奥から睨まれたけれど。
「だって、嫌なものは嫌なんですもの。だいたい、御子神社長ほどの人なら、親からの見合い攻撃も寄ってくる女性も、そつなくお断りできますよね?」
「うっ」
 私の指摘で社長が声を詰まらせる。のっぴきならないほど困っているのなら考えるが、私に偽の婚約者役を頼まなければならないほど彼が困っているようには見えない。
「……実は貧乏なの、バラされてもいいのか」
「うっ」
 ふて腐れたように上目遣いで言われ、今度は私が声を詰まらせる番だった。
「べ、別に、バレても困らないですし?」
 強がってみせながらも、声は震えるし視線もあちこちに向く。
「そうか。どこかのご令嬢だと思っていた清子がこんなド貧乏だと知って、みんながっかりするだろうな。それだけならまだいいが、騙されていたと逆ギレするヤツも出てくるかもな。大変だな、清子」
 はぁーっと物憂げに社長がため息を落とす。別に貧乏がバレたところで不都合はないが、みんなにがっかりされるのは嫌だ。それに逆ギレも困る。
「……婚約者のフリをすれば、貧乏だって黙っていてもらえるんですか」
「ああ。誰にも言わない。なんなら、バレそうになったらフォローしてやる」
 うん、と社長が頷く。なら、私にもメリットがある……? それにこれはあくまでもフリであって、本当に婚約するわけでも、ましてや結婚するわけでもないのだ。今までだって周囲の期待に応えて御子神社長は恋人っぽいフリをしていたわけだし、何ら変わりがないのでは……? だったら、問題はないはず!
「わかりました。御子神社長の婚約者のフリをします」
「よしっ、決まりだな!」
 右の口端をつり上げ、ニヤリと社長が笑う。それはなにかを企んでいそうな実に意地悪な顔で、早まった気がした。
「……ところで。その。……昨晩はい、いたしたんですか?」
 小さなお子様には聞こえないように、社長の顔に自分の顔を寄せてこそこそと話す。
「いたしたって……ああ。秘密、だ」
 意味深に小さく笑った社長の手が、私の後ろ頭に回る。なにをするんだろうと思っていたらその手は私の頭を引き寄せ、軽く唇が重なった。
「な、なにするんですかー!」
 反射的に上げた手を振り下ろす。しかし今度は易々と止められた。
「二度も食らうかよ」
「ファ、ファーストキスだったのにー! 返して、私のファーストキス、返して!」
 ジタバタと暴れたら簡単に手を離され、反動で尻餅をついた。
「返せって……返せるのか、ファーストキス」
「うっ」
 あきれ顔で社長は私を見ているが、確かにそれは……無理だ……。
「てか、二十五にもなってまだ、キスすらしたことなかったのかよ」
「悪かったですね! 子育てとお金で頭がいっぱいで、そんな余裕なんてなかったんですよ!」
 健太が生まれたあの日から、家族は私が守ると決めたのだ。少ないお金でどうやって遣り繰りするか、弟たちに少しでも不自由な思いをさせないためにはどうしたらいいか、そればかり考えてきて恋などする余裕などなかった。
「わるかった」
 慰めるように、御子神社長の手が軽くぽんぽんと頭に触れる。
「清子は今まで、いっぱい苦労してきたんだもんな。これからは俺が、楽させてやるからな」
 レンズ越しに社長が、真剣な眼差しで私を見ている。その瞳に心臓が一回、甘く鼓動した。しかし。
「……痛いです」
 せっかく感動するところなのに、社長が私の鼻を摘まんできて台無しになった。でも不思議と、御子神社長との仮初めの婚約関係も悪くないかも、なんて考えている自分がいた。

……続きは本編で。

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