【小説】占いとは当たるものらしい
「キス、していいですか」
挑発的に課長が、右の口端を持ち上げてニヤリと笑う。
愉悦を含んだ瞳を、レンズ越しにただ見ていた。
……なんでこんなことになってるんだっけ?
原因を考えるが、空回りする頭ではなにも思い当たらない。
私の答えなど待たず、ゆっくりと傾きながら課長の顔が近づいてくる。
間抜けにもそれを見つめたまま、今日一日を思い出していた。
出だしは、普通だったと思う。
『本日のラッキーは乙女座のあなた。
気になるあの人と思わぬ急接近。
ためらわずに一歩踏み出すと未来が開けます。
ラッキーアイテムは歯ブラシ』
「なーにが『気になるあの人と急接近』、だ」
出勤の準備をしながら、テレビにツッコむ。
確かに私は乙女座だが、急接近もなにも〝気になるあの人〟とやらはいない。
そもそも、社内女子ヒエラルキーがあるとすれば底辺確定の私に、恋などできようはずがない。
ゆえにあの占いは大ハズレなのだが、まあ星座占いとはそういうものだろう。
わかっていて毎朝チェックし、一喜一憂しているわけだし。
「じゃ、今日も頑張っていきますかね」
鏡に映る自分を見て、最終確認する。
当たり障りのない紺スラックスと白ブラウス、髪は適当にひとつ括りにしただけ。
仮に気になる人とやらがいたとしても、こんな私に急接近などありえないのだ。
満員電車に揺られ、今日も出勤する。
これさえなければ休みなしで働いてもいい……とまでは言わないが、それほどまで苦痛な時間を過ごし、会社最寄り駅で降りた。
「おはようございます」
駅を出たところで声をかけられ、振り返ると課長が立っている。
ほんの三十分ほどとはいえ苦行を終えたあとだと、課長の爽やかな笑顔が心に染みた。
「おはようございます」
挨拶を返し、一緒に歩きだす。
たまたまだと思うがこのところ、課長遭遇率が高い。
「あの、今日の『松菱(まつびし)』さん訪問の件なんですけど」
「はい」
話しかけられ、課長の顔を見上げる。
女子としては平均的な身長の私と、男性としてはだいぶ背が高いほうの課長では、かなり上を見なければいけない。
「三津屋(みつや)さんも一緒に来てもらえませんか」
「えっと……」
あの件の発案は私だが別のプロジェクトに移ることになったため、後輩の男性社員に引き継いだ。
なのに一緒に来てくれとは、どういうことなんだろうか。
「……なにか、問題でもありましたか?」
だから発案者の私に来てくれといっているとしか考えられない。
「問題がないのが、問題です」
困ったように小さく笑い、課長が私の顔を見る。
問題がないならそれに越したことはないと思うが、なにが悪いんだろう?
「とにかく、一緒に来てください。
資料はすでに送ってありますし、レクチャーが必要なら時間を取ります」
「それは課長命令ですか」
理由も話さず、もうすでに外れた仕事に関われと言われても困る。
しかし、課長命令と言われれば、社畜の私は断れないのだ。
「……課長命令です」
なぜか少し、苦しそうに課長が声を絞り出す。
「わかりました」
なんだかよくわからないまま、私は了承の返事をした。
会社に着いてパソコンを立ち上げると、言っていたように資料がすでに送ってあった。
「今日はあれとこれと、あー、あれは明日に回せるか……。
んで、この資料読んで松菱さん訪問って、完全に残業コースじゃないですか」
テキパキと今日の予定を確認しながらブツブツ文句を言う。
ちらりと課長席を見たら、目のあった彼がにこっと笑った。
他の女子ならそれでよろめいてふたつ返事で余計な仕事も受けそうだが、残念ながら私はそうじゃないんですよ。
私よりふたつ上、今年三十になる課長はいわゆるイケメンというヤツだ。
ニュアンスパーマのかかったミディアムヘアをセンター分け、涼やかな目元を銀縁スクエアの眼鏡がさらに引き立てる。
唇は薄いが形はよく、左下にほくろがひとつ。
しかも年下にも敬語であたりがいいとなれば、女性に限らず男性にもファンがいるって話だ。
「三津屋さん」
始業時間になってすぐに、課長が私の席まで来た。
今から打ち合わせがしたいとかいうなら、勘弁してほしい。
「今日の業務予定を教えてください」
「あっ、はい」
課長が空いている席を指すので、ふたりでそこに移動した。
「今日の予定は……」
今抱えている仕事を説明する。
見た目は地味で社内女子ヒエラルキー底辺な私だが、一応係長なんて肩書きが付いている。
今のプロジェクトでも、それなりに重要なポジションに就いていた。
「あとは今朝課長に言われた、松菱さん訪問の件ですね」
若干、皮肉っぽくなったが仕方ない。
それだけ私は忙しいのだ。
「わかりました。
在庫確認と発注は他の人でもできますよね?
あとは……」
テキパキと私の仕事を課長が整理していく。
あっというまに無理をしなくても、今日中に収まる仕事量になっていた。
「前から三津屋さんは仕事を抱えすぎだと思っていました。
これからはもう少し、他の人に割り振るようにしていきましょう」
「……はい」
もっともすぎて返す言葉がない。
現に、私じゃなくてもいい仕事を他の人に振ったら、いくらも残らなかった。
今までいかに、自分が他人を頼らずに仕事を抱え込みすぎていたのか痛感した。
「怒っているわけではありません。
僕も早く声をかければよかったんですが、こんな機会になってしまいすみません」
課長に頭を下げられ、反対に申し訳ない気持ちになる。
「いえ、助かりました!」
「なら、いいんですが。
じゃあ、資料を読み終わったら声をかけてください。
打ち合わせをしましょう」
「わかりました」
ふたり同時に立ち上がり、それぞれの席に戻る。
イケメンだけじゃなく気遣いもできるなんて、課長はどれだけハイスペなんだ。
その顔にツッコみ、私は資料を読みはじめた。
「課長」
「あと十分待ってください。
……お電話代わりました、……」
私が声をかけたとき、彼は忙しそうにキーを打っていた。
さらに電話がかかってきてそちらにかかる。
……私より自分のほうが仕事大変なんじゃない?
なのに、こんな無駄な同行なんてなに考えてるんだろ。
しかし考えたところで課長の思惑なんてわかるわけがないので、課長の分とふたつ、インスタントではなく簡易ドリップのコーヒーを淹れた。
別にこれに特段意味はなく、ただ単にできた隙間時間を埋めるためだ。
「すみません、お待たせしました」
打ち合わせブースで待っていたら、十三分後に課長が来た。
「いえ。
あ、よろしければ。
冷めたかもしれませんが」
課長の前にカップを滑らせる。
「ありがとうございます。
じゃあ、飲みながらやりましょうか」
「はい」
課長はコーヒーを一口飲み、再び口を開いた。
「聞きたいことはありますか」
「そうですね……」
すでに資料は読んであるので、質疑応答からはじまる。
もうわかっている内容を再び説明するなど、無駄なことはやらないのだ、課長は。
「このプロジェクト、上手くいくんですか」
いくつかの質問のあと、本題ともいえる質問を切り出す。
プロジェクト立ち上げ当初、想定していた問題点が一切ない。
あまりに上手くいきすぎていて不安になる。
「いかないと困るんですけどね……」
小さく笑ってカップに口をつけた課長は、疲労が濃いように見えるのは気のせいだろうか。
「とにかく今日は、同行よろしくお願いします」
「わかりました」
なんとなく、急な同行の意味がわかった気がした。
時間になり、現担当の増田(ますだ)さんと課長、それに私の三人で松菱さんに向かう。
増田さんの顔色が悪い。
その理由を私は先方で知った。
なにしろ松菱さんはかなりお怒りなのだ。
彼は松菱さんからの提案を適当に聞き、なにも問題がないかのように進行どおりにプロジェクトを進めた。
どおりで問題が一切ないわけだ。
それでもとうとう課長の耳に入り、今回の同行になったというわけだ。
けれどまだ、私まで同行しなければいけない意味がわからない。
会社に帰り、また私は打ち合わせブースに課長から呼ばれた。
「だいたい、状況はわかってもらえたと思います」
「……はい」
あれはプロジェクト立ち直しがかなり大変そうだ。
外れていて正解だった……なんて思った私が甘かった。
「僕は増田さんの代わりに、三津屋さんにプロジェクトに入ってもらおうと思っています」
「はい……?」
課長の言う意味がまったく理解できない。
あれだけの失態だ、増田さんが外されるのはわかる。
でも、なんで私?
私だって今、他のプロジェクトに関わっている。
ふたつなんて絶対無理。
「これは三津屋さんのプロジェクトです。
外されて悔しくないんですか」
「それは……」
眼鏡の奥から真っ直ぐに私を見る課長の目は、怒っているように見えた。
プロジェクトを外されたときは、そりゃ悔しかった。
でも、後輩を育てるためなら仕方ないと思った。
……増田さんが部長のお気に入りだから、自分が女だから仕方ないと思った。
そうやって割り切って整理したのだ。
それを、今になって。
「……悔しいに決まってるじゃないですか」
何度も何度もプロジェクトの成功を想像して、わくわくした。
けれど、そんなちっぽけな理由で取り上げられた。
社畜なんだから上司の命令は絶対。
部長に逆らったら会社にいられなくなる。
だから私は無理矢理自分を納得させたのに、この人は。
「それじゃあ僕は、三津屋さんの手に取り戻してやりますよ」
課長の目には強い意志がこもっている。
それを見て、喉がごくりと音を立てた。
「……できるんですか」
「できないことは言いません。
それに僕だってあの日、部長の決定を覆せなくて悔しかったんですから」
部長の提案を課長は受け入れたんだと思っていた。
でも、本当は反対だったんだ。
「ありがとう、ございます」
プロジェクトを外された日から抑え込んでいた感情が溢れてくる。
潤んだ目を見られたくなくて、俯いた。
「僕は、別に」
私の頭を、課長が軽くぽんぽんと叩く。
それがなぜか、嬉しかった。
「そうだ。
なにかお礼、お礼をさせてください。
って、まだ決まってないのに気が早いですが」
ここまでしてもらってなにもしないのは気が済まない。
じっと彼の顔を見て返事を待つ。
「あー……。
三津屋さんとキス、したいです」
「は?」
間抜けにも一音発したまま固まった。
キスしたいって、誰と?
私と?
いやいや、きっと冗談……。
「キス、していいですか」
私の返事など待たず、テーブルの上に左手をついて身を乗り出してきた課長が、右手で私の顎を持ち上げる。
レンズの向こうで艶やかに光る瞳に魅入られ、傾きながら近づいてくる顔をただ見つめていた。
しかし唇が触れる寸前、課長が顔を離す。
なんだ、やっぱり冗談だったんだとほっとしたのも束の間。
「三津屋さん。
キスするときは目を閉じるんですよ」
「えっ、あっ」
注意されて悪い気になり、反射的に目を閉じた。
少しのあと、柔らかいものが私の唇に触れる。
ファーストキスだっていうのに私は、眼鏡をかけたままでもキスできるんだ、とか変なことを考えていた。
「今は会社だからここまでですよ」
唇を離した課長がいたずらっぽく笑い、唇に人差し指を当てる。
それを見て、顔から火を噴いた。
「三津屋さんは本当に可愛いですね。
これからが楽しみです」
課長はおかしそうにくすくすと笑っているが、パニックになった頭ではどういう意味なのかわからない。
これからって?
だいたい、なんで課長は私とキスなんか。
「もう、遠慮はしませんからね」
口角をにっこりと吊り上げた課長から、逃げられる気がしない。
課長も乙女座で、今朝の占いが当たっていたと知ったのは、これからほんの少しあとの話。
【終】