【小説】可愛い上司 case1 先生の場合
……うちの先生は酷く可愛い。
私は大学で先生の助手をしている。
だから、先生は上司なんだけれど。
こんなに可愛い人を私はほかに知らない。
三十代。
細身で長身、長い手足。
そのくせ猫背。
天パで猫っ毛の、もしゃもしゃ頭。
黒セルの眼鏡に長めの前髪は、顔を半分隠してる。
そういう見た目もまさに萌えなんだけれど。
先生が可愛いのはそこだけじゃない。
先生の朝は一杯のコーヒーから始まる。
なぜなら先生は朝が弱い。
出勤してきてもまだ眠気は飛んでないのだ。
いや、そんな状態でどうやって大学まで来てるのか気になって一度、こっそり駅からついっていってみたら、電柱にぶつかって本気で謝っていた。
そういうところはほんとに萌え……なんでもない。
「コーヒーどうぞ、先生」
「ありがとう」
ソーサーとカップを手に、コーヒーを飲みながら先生は部屋の中をうろうろする。
飼っている金魚の様子を見たり、カレンダーを確認したり。
けれど、手もとを気にしないもんだから。
「先生。
ネクタイ、コーヒーに浸かってます」
「うわっ」
「先生、コーヒー、跳ねてます」
先生が慌て、コーヒーがそこらじゅうに跳ねてこぼれる。
ぼーっとネクタイをコーヒーに浸してるのも、慌てすぎて大惨事になってるのも微笑ま……しくない。
しくないとも。
後片付けは私がするんだもの。
だから、朝は特に、重要書類はきっちりと片づけておく。
「ご、ごめんねー」
「謝るのはいいですから、さっさと服、脱いでください」
「……うん」
私がこぼしまくったコーヒーを拭いているあいだに、先生は涙目で項垂れてネクタイをほどきプチプチとボタンを外していた。
そういうのもめちゃくちゃ可愛く……ない、ない。
初めのころはネクタイは素直に外したものの、コーヒーが跳ねてシミができているシャツを脱ぐのは抵抗された。
恥ずかしい、って。
下シャツ着ているんだから問題ないでしょって無理矢理脱がしたら真っ赤になって。
あれはあれですごくかわい……なんでもない。
「はい、替えのネクタイとシャツです」
「ありがとう」
ちょっと照れた笑顔で受け取った先生の目には、涙が光ってて胸がきゅんと音を立てた……りしない。
しないとも。
替えのは、いつも何組か用意している。
ネクタイをコーヒーにボチャン、だけじゃなく、お昼にうどんを食べて浸してくることもあるのだ。
「じゃあ僕、授業にいってくるね」
「はい、いってらっしゃい」
笑顔で講義室に向かう先生を笑顔で見送る。
先生のこういうところが可愛い……うん、もう正直に認めちゃう。
可愛くて仕方なくてみんなに力説しても、理解してもらえないのが悩みの種だ。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
先生が帰ってきたから、玄関までお出迎え。
今日は無事に電車を降りられたようで、ひとりで帰ってきた。
ときどき、読んでた本に夢中になっちゃって駅を乗り過ごし、涙声で電話をかけてきて迎えに行くときがある。
「イツキさんのごはんはおいしいねー」
ゆるゆるほわんと笑って先生がごはんを食べているのが好きだ。
しかも、自分が作ったごはんを美味しいって言ってくれて、幸せそうに笑ってくれると最高。
ついつい嬉しくて、私も笑っちゃう。
食後、先生は自分の部屋でお仕事。
「先生、コーヒーお持ちしました」
「ありがとう」
眼鏡の奥の目が、眩しそうに細くなる。
それだけでいまだに、どきどきしてしまう。
「どうか、した?」
不思議そうに先生の首が傾く。
「……先生は狡いです」
「僕、なんかした?」
先生は困っている。
そういうところが、また。
「私ばっかりこんなにどきどきして」
「えっ!?」
わけがわかっていない先生にかまわずに、強引に唇を重ねる。
離れると……先生は指先まで真っ赤になってた。
「もう、来週から産休にはいるんですよ。
代わりの人にそんな可愛い顔見せたら、ダメなんですからね」
「僕のこと可愛いとか言うのはイツキさんくらいだよ。
それに」
先生の顔が近づいてきて目を閉じると、唇がふれた。
目を開いたら、やっぱり先生は真っ赤になっていた。
「こんなことをするのはイツキさんだけだし」
レンズの奥の目が、にっこりと笑う。
「やっぱり先生は狡いです」
やっぱり先生は可愛い。
これ以上に可愛い男を、私は知らない。
【終】
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