日本にきてから26年、サハさんの送る東海村での日常をキリトル
サハさんの横顔
1970年(昭和45年)11月生まれの53歳。
正式名はSaha Pranab Kumar(サハ プラナブ クマール)。
バングラデシュ国 ダッカ市出身。
家族構成は妻と子ども2人の4人家族。
日本での生活は今年で26年目。
バングラデシュの概要
周囲3方向をインドに囲まれ、ベンガル湾に面した農業立国。
人口は1億1,900万人。
国土は日本の約1/3の面積。
1971年(昭和46年)にパキスタンから分離独立。
日本に来るきっかけとその後
バングラデシュのダッカ大学で物理学を学んでいた時に、「次は博士号を取りたい」と当時の教授に相談したところ、海外に行くべきと勧められました。
日本、アメリカ、イギリス等の大学に留学申請しましたが、縁あって、東京大学の福田共和(ふくだ・ともかず)教授が推薦してくれた総合研究大学院大学に進学することになり、初めて日本に来ました。
日本に来てから3年間は、つくば市にある高エネルギー加速器研究機構(KEK)で原子核素粒子実験を学び、2001年(平成13年)に博士号を取得しました。その後、大阪電気通信大学、大阪大学で博士研究員として勤務し、研究活動を続けていきました。
2004年(平成16年)、当時の日本原子力研究所(現在のJAEA)が東海村J-PARC(大強度陽子加速器施設)を建設中というタイミングで、多くの研究員を募集していたことから、試験にチャレンジし採用されました。
現在は、JAEA主任研究員としてJ-PARCで加速器の研究をしています。
研究に関連して、毎年海外で会議が開かれているのですが、昨年はイタリアのベネチュア、今年はアメリカのナッシュビルに行く予定です。また、次世代加速器の研究に関して日米の協力研究が進められており、日本側の代表者の1人として毎年招待され出席しています。
正に世界中を飛び回って活躍されているという表現がピッタリ合いますね。
ここからはサハさんに「日本語でのコミュニケーションや東海村での生活、趣味、東海村で印象に残っていること」を語ってもらいました。
サハさんにとっての日本語とは
来日当初は、周りの方々も英語でコミュニケーションを取っていたので生活のほとんどが英語という環境でしたが、博士号取得の前後は日本語と英語が半々、その後の大学勤務ではほとんどが日本語でした。
現在も、仕事の合間に日本語教室に通ってます。漢字は難しく今でも読めないものが多いですが、前後の文章から大体意味が理解できるようになっています。もちろん家族は日常生活において、日本語の読み書き・コミュニケーションの問題はありません。
ここからはサハさんに「東海村での生活」「趣味」「東海村で印象に残っていること」を語ってもらいました。
東海村での生活は
東海村を含め、日本は安心安全に住めるところであり、日常生活でも快適に過ごしています。妻も子どもたちも日本が大好きです。特に子どもたちは、日本生まれ・日本育ちなので、私以上に日本に馴染んでいます。妻も村内で仕事をしており、週1回ほど子どもたちに英語を教えています。
自分の親戚はイギリスとアメリカ、姉妹はインドにそれぞれ住んでいるので、将来はイギリスにも住んでみたいなと思うこともあります。
趣味は
旅行、マラソン、家庭菜園、料理、日本人とのコミュニケーション等です。
特にコミュニケーションを重要視しており、家族共々積極的に地域の集り、イベントに参加しています。
地域の方々と会話をすることで、日本人の考え方や暮らし方、その土地の風俗、習慣を知ることができ、更には友だちを作るきっかけにもなるので、私たちにとっては欠かせないものです。
特に、東海村の国際交流協会には早い段階から活動に参加させてもらっていたので感謝しています。(亡くなられた小林健介(こばやし・けんすけ)さんには大変お世話になりました)
自国に山がないこともあり、旅行では、山のある箱根や那須などに行きました。マラソンも好きなので、福島県で開催される桃の里マラソンや沖縄県で開催されるヨロンマラソンに、家族旅行を兼ねて参加したりしていました。
家庭菜園も好きです。
自国の料理を作るために、唐辛子は欠かせません。
昔は手に入りにくかったので、自分で作ってしまえばいいと家庭菜園で唐辛子を始めました。私の畑は他の方とちがって唐辛子率高めなのですぐにわかると思います(笑)
ここで、サハさんの家族と昔からのお知り合いである東海村国際交流協会(TIA)会員の高橋孝子(たかはし・たかこ)さんにもお話しを聞いてきました。
「小林健介さんは残念ながら2012年(平成24年)に逝去されましたが、国際交流協会の2代目会長として、奥さんの康代(やすよ)さんとともに、協会の活動に尽くされ大きな足跡を残された方です。
東海村に住んでいる外国人の家族に対して、いち住民の立場から積極的にコミュニケーションの場を作られていました。
日本文化の体験や生活支援の場として、いけばな教室や書道教室、それぞれの母国の料理教室、スポーツサロン、キッズサロン、日本語教室などバラエティ豊かに展開されていました。サハさんもバングラデシュサロンでカレー料理を作り、参加者に大変喜ばれていました。サハさんのお子さんたちも小さい頃からいろいろな教室やサロンに参加されて楽しんでいました。
サハさん家族との思い出として、初めてのお子さんが生まれた時、自宅に招待されてお伺いしたところ、大きな鯛の姿造りを出されてビックリしたことを今でも憶えています。その時は、日本文化にとても関心があるお二人の姿に大変驚きました。
また、サハさんの親子と一緒に、ひたちなか海浜公園内をベビーカーを押しながら散策したのもいい思い出です。その時のお子さん(長女)が今春大学に入学されるというお話を聞き、時の流れの速さを感じました。サハさんご家族と過ごした時間は素敵な思い出となっています」
東海村で印象に残っていること
東海村では、村長と直接意見交換できる場が設けられていますが、私もその場に参加し、お話ししたことがあります。
当時、子どもたちが石神小学校に通学していましたが、(ちょうど梅雨時だったかな)石神コミセンと石神小学校の間の道路で一番低いところが水没してしまっていました。子どもたちは膝まで水に浸かって歩いていたので、すぐに改善してほしいと要望しました。
村長に話してすぐに現場をチェックしてくれて、改修工事を実施してくれました。私の話を聞いてくれて、さらにはすぐに実行に移してくれたことをうれしく思いましたし、今でも村長と直接お話しできる機会があることは大切なことだと思います。
長年東海村に住んでいる住民の立場として、通学路を中心に、子どもたちが歩くところはもちろんですが、まち全体に、犯罪防止のためのひとつとして、防犯カメラをより多く設置して、さらに住み良い東海村にして欲しいなと思っています。
取材を通して
あくまで個人的な見解ですが、一般的に高学歴な人ほど、英語主体のアメリカやヨーロッパを目指す傾向にあるように感じていますが、サハさんは、兄弟や親戚と違って、未知の日本を選んだことには、相当の覚悟と決断があったのだと思います。
言葉にはしていなかったですが、今回のインタビューを通して、日本語、習慣、食べ物など、日本での生活に慣れるのには大変な苦労と努力があったのだと思います。
それを持ち前の明晰な頭脳と天性の笑顔、積極的なコミュニケーションで克服されて、現在があるのだと強く感じました。
本人は、将来のことは分からないと言っていましたが、東海村として誇れる一村民がここにいるということをこの記事を通じて知ってもらえれば幸いです。
▼ 取材・執筆・撮影担当者
田中克朋/取材・執筆・撮影
秋田県鳥海山の麓に生まれ、就職を機に茨城県へ。東海村には50年近く在住。会社員時代にタイ王国へ出張も含めて通算8年ほど駐在し、現在も現地の人たちと交流をしている。趣味は写真をベースにインスタグラム等のSNSで村内の風景を発信すること。「T-project/東海村スマホクリエイターズLab.」では若い世代に教わりながら楽しんでいます。
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