『殺さない彼と死なない彼女』小林啓一【映画感想】
2019年11月公開の邦画作品。公開当初、評判が良かったので、観たいと思っていたが、結局観れず。いつのまにかamazonプライムで視聴可能となっていたが、レンタル料770円。高いな...。が、「ティーンエイジャー女子向け恋愛ムービーと思いきや...まさかの良作!」だの「近年の量産型恋愛映画とは一線を画す!」といったレビューに踊らされ、いざ鑑賞。結果は...
概要
SNS漫画家・世紀末によるTwitter発の人気コミックを、「帝一の國」の間宮祥太朗&「ママレード・ボーイ」の桜井日奈子のダブル主演で実写映画化。何にも興味が持てず退屈な日々を送る男子高校生・小坂れいは、教室で殺されたハチの死骸を埋めているクラスメイト・鹿野ななに遭遇する。ネガティブでリストカット常習犯だが虫の命は大切に扱う彼女に興味を抱く小坂。それまで周囲から変人扱いされていた鹿野だったが、小坂と本音で話すうちに、2人で一緒に過ごすことが当たり前になっていく。「逆光の頃」の小林啓一が監督・脚本を手がける。
2019年製作/123分/G/日本
配給:KADOKAWA、ポニーキャニオン
(出所:eiga.com)
※以下、一部ネタバレ含みます。
のれなかった..
結論から述べると、あまり...のれなかった...。
(なので、批判よりの感想となりますが、作品自体の魅力は間違いなく存在すると思いますし、その魅力を否定しないよう心がけますので、ご容赦ください...)
確かに、いわゆる量産型恋愛映画に留まらないメッセージ性はある。また個々人の合う、合わないの範囲で、本作が自身の好みに合わなかった、つまりは単に趣味嗜好の問題、と片付けるべき点が多いのも事実。一方で、「これはちょっといかがなものか...」、趣味嗜好を超えた倫理観にもとづく違和感を感じたことも確かだ。
テイストが合わなかった部分
本作はオール自然光撮影、いわゆるソフトフォーカスめの柔らかい画作りとなっている。まず、この画作りが合わなかった。「もう少し陰影の濃い画はないのか!」「陽光射しすぎ!」と思ってしまうのだ。とはいえ一つの映画文法として間違いなく存在する手法だと思うのと、だからといって無条件に個人評価が下がるわけではないので、あくまでテイストの好みの話である。
続いて、本作の演出スタイルについて。誤解を恐れず言うと、本作は非常にセリフ過多(説明過多)である。個々人の感情・考え、物事の背景について、映画的演出ではなく、台詞によって表現することが非常に多い。この点もあわなかった。新海誠を筆頭に、あえての説明過多を作家性とし作品の個性に落とし込む作品は数多い。しかし、個人的には台詞や直接的な言葉表現以外の映画的演出が好みであり、映画的カタルシスを感じる部分であるのだ。とはいえ、こちらも自身の趣味嗜好の問題。また、後述する本作のテーマにもつながってくるため、"あえて"の部分と言わざるを得ない。
ほかにも、「地味子ちゃん全然地味じゃない」とか「(地域イメージを希釈するため)学校の校門前の表札は隠してほしかった...」など細かい点は多々あるが、いずれも趣味嗜好の話かつ揚げ足取りの感は否めないので、割愛。
3つのストーリーから浮かび上がるテーマ
本作は間宮祥太朗演じる小坂れいと桜井日奈子演じる鹿野なな、二人のメインストーリーに加え、2組の高校生の物語が並行して語られる。3つのストーリーに共通するテーマは人と人の「コミュニケーションの一方通行性」。人が思い、気持ちを伝えるとき、それは根源的には常に一方通行なものである。伝えたいのに伝わらない、あるいは伝えないほうが良いと思うから伝えない。そこから生じる孤独や悲しみや儚さ。本作の台詞過多なやり取りの中からも、そんなコミュニケーションの一方通行性に関する諸相が次々と描かれている。そしてそれは人が人を想うことの儚さ、難しさにつながることであり、またその一方通行性の先にある希望というものが、本作では恋愛に限らない、普遍的なテーマとして浮かび上がってくる。
原作は3組のストーリーをそれぞれ1章ごとに章立てした、4コマ漫画集。上記エッセンスを最大限に抽出し、3つのストーリーを並列進行させる作品として、手際よくまとめ上げた点が素晴らしい。
倫理的な違和感
ただ倫理的な違和感という意味で、本作では自死をはじめとする、人の心に関する比較的デリケートな問題に触れている割には、それらに対する掘り下げが甘い、言い換えれば、扱いが軽いのでは、感じる点が多々ある。
とくに、鹿野のリストカット癖(及び自殺願望)について。本作ではリストカットに至る背景や詳細な心情描写は描かれていない(原作にも描かれていないが)。しかし、物語序盤からリストカット、死への願望は小坂れいとの会話の中で(小坂側の「殺すぞ」という言葉と対になり)一種のコミュニケーションツールとして頻用される。また最終的にはリストカットの傷が消えかけてきたことが、鹿野の成長の象徴として示されるわけだが、そもそもの背景、抱えていた心の闇が描かれていないため、どうしても納得感を得ることができない。
要は、デリケートな内容を記号的に扱いすぎでは、と感じるのだ。(自分自身リストカットしたことはなく、また、しようと思ったこともないが)そこに至る背景・事情はそれぞれ複雑で、程度の差こそあれ、簡単に解決できる問題ではないはずで、そのことを考えると、人物に奥行きをもう少し持たせてほしかった。
ただ一方で、人物描写を描き込み過ぎると、逆に問題が単純化される可能性があるのもまた事実。あえての余白を取る、という意味では最善のバランスなのかもしれないと考えると難しいところ。
とはいえ少なくとも、リストカットについては可能な限り失くしていくべきで、それ故、決して美化されてはならない行為であると考えており、その意味で、(配給上の問題も生じるかもしれないが)傷跡や血をはっきりと見せる等、もう少し「痛い」ものとして描いてほしかった。
街中を歩いていてふと自分のことが嫌いになったとき、今すぐこの場から消えてしまいたくなった時、私は近所の献血ルームを検索し、慌ててそこへ駆け込む。嗚呼、リストカット感覚。
(中略)
献血は世界を救う。救われているのは、見知らぬ誰かではない。きっと、この腕に確かな手応えがなければ何一つ信じられない、即物的で生ぐさい、私たちのほうなのだ。
(中略)
私やあなたの存在が、自分自身で夢想するほど劇的に、熱烈に、ラノベの「僕」やハーレクインロマンスのヒロインのようなドラマ性をもって、うんとすごい誰かに、あるいは世界中の不特定多数に、必要とされることは人生で一度もないかもしれない。我々は何者でもない。しかし我々の血は生きて流れているだけで、同じ時を生きる誰かを助けることができる。アンパンマンのように「僕の顔をお食べ」ということはできなくても、「僕の血をお使い」と言うことはできる。
出所:『ハジの多い人生』岡田育(文春文庫)
「手首を切るな、ぱいぱんにしろ、」
出所:https://twitter.com/shinukosan/status/1238059085158699008
物語は人を救う。そのことに異論の余地はない。しかし、上述の身も蓋もない、けれども実人生に根差した文章や言葉の方が、今の自分にはより響く、そして救いがあると思うのである。
以上
<引用元>
https://twitter.com/shinukosan/status/1238059085158699008
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