No Plan フライデーも悪くない
「今度の金曜、飲みに行かない?」
「あ、ごめん。金曜は先約があって無理なんだー。また今度ね。」
「りょうかーい。じゃ、また今度誘うわ。」
これは友達や同僚の誘いを断る時のありがちなやりとりだ。
先約
① かねての約束。以前にしておいた約束。前約。 「 -を果たす」
② 約束を申し込まれた以前に結んでおいた別の人との約束。 「今日は-がある」
( 出典:https://www.weblio.jp)
先約と聞いて、私を誘った友人は何をイメージするだろう。例えば、彼氏とのデートの予定やコンサートに行くことだろうか。友人である自分の誘いを断るに匹敵する重要な何かがあるに違いない、と無意識に考えているはずだ。
そんな友人の思惑とは裏腹に、実は時々、「ノープラン」という名の予定を金曜日に入れていることがある。
何か特別なことがあるわけではない。ただ、自分の中で、この日は自分のペースで好きなことをする日、と決めている。そしてそれを確固たる予定としてスケジュールしてしまうのだ。しかし蓋を開ければ何の変哲もない普通の夜の過ごし方であり、映画を見たり、ちょっとダラダラしたり、ボーッと散歩に出かけたりする。
誘われた段階で既に決まっている別の人との予定のことを先約と呼ぶのであれば、
”以前から結んでおいた自分自身との約束”
ということで、この件は正当化できるんじゃないかな、などと考えている。
決して人付き合いが苦手というわけではない。仲のいい友人と集まれば時間を忘れてお喋りに花を咲かせるし、知人が少ないパーティーなどでも輪を広げることができる方だと思う。愛想だっていい方だと思っている。
悪気があってお誘いを断っているわけではないのだ。
ただ、時々私には、自分を取り巻く世界から少し離れてみて、傍観者になってみる時間が必要なのだ。そう気づいたのは20代の頃だった。
私はその頃狭い世界で生きていた。
バイトしていたカフェには多くのおもしろい人が集まり、すぐに仲良くなった。お店の外でも遊ぶような仲に、簡単になれた。いつも同じようなメンツで、同じような場所で遊び、お店では私はドリンクを作り、そこでは彼らはお客さんだった。
通っていた女子大では出会えないような人がたくさん私の人生に現れ、そのカフェを中心に私の”街”は広がっていった。”街”には何でもあり、そこにいさえすれば、安泰な生活が送れたのだ。
そんなある日、私はふと気づいたのだった。「私はいつの間にか、この”街”から、ちょっと出かけて遊びに行ってくるわ!と考えることさえ止めてしまっている。」と。
それは大きな気づきだった。もともと私は1つのコミュニティに依存することを嫌う傾向があり、渡り鳥のように人と繋がっていたい人間だった。そして、また戻ってこられる大切な場所をたくさん持っていたい、という、不思議な欲があった。
そんな私が、”街”に執着していたのだ。もはや愛着とは別の形をしていた。
それからの私は次なる場所を探し始めた。ちょっと遊びに行ってくるわ!と。
自転車で駆け回り、いつもと違う場所で夜を過ごした。私の”街”を知らない人と過ごす時間は刺激的でもあった。
あの時、自分の執着心に気づいた時、私は怖いと思った。さらさらと流れる川の流れがせき止められて、水が淀んでいく光景を見ているようだった。
執着が悪いわけではない。きっと必要な執着心もある。
でも、自分のためにならない執着もきっとあるのだと思う。
あの時から、私は時々、自分の世界を外から見てみることにしたのだった。自分の立ち位置を傍観し、ごちゃ混ぜになった思考回路をリセットし、少しだけ息を抜いてみる。そうすることで、今まで霞んで見えていたものが鮮明になっていくような、新しい風が吹き込むような気がするのだ。
そこから派生した「ノープラン」フライデー。
私の「先約」とは、みんなが思っているよりも、どうでもよくて、同時に尊い。
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