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源頼朝ゆかりの地を巡る旅①



源頼朝(1147-99)は、父・源義朝の正妻由良御前が身ごもり、実家の尾張国愛知郡の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸にて三男として生まれたとされています。

源頼朝出生地


1160年頼朝は、平治の乱で近江国で捕えられ京の六波羅へ送られます。死刑を当然視されますが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより伊豆に配流され、伊豆山権現にて源氏一門を弔い再興の祈願をしていました。

伊豆山神社


頼朝の監視を任されていたのが伊東祐親です。上洛中の工藤祐経の伊東荘を奪った伊豆国伊東の豪族でしたが、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受けていました。

伝伊東家館跡碑


そんな中、『曽我物語』によれば、伊東の北の小御所に住んでいた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に三女・八重姫と音無の森で逢瀬を重ねて、子・千鶴丸を儲ける仲になります。

音無神社


千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から伊東館に戻った祐親は事態を知って激怒し、平家への聞こえを恐れて家人に命じ、千鶴を轟ヶ淵の水底に沈めて殺害してしまいます。

伝承絵巻展示パネル


さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けますが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻とした祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れます。

北条氏邸跡(円成寺跡)


しかし、頼朝は時政が大番役で在京中の間に今度は政子と恋仲になります。時政も平家への聞こえを恐れ大反対しますが、最終的に婚姻を認め、間もなく政子は長女・大姫を出産します。

北条政子産湯之井戸


一方八重姫は、『曽我物語』によると密かに伊東館を抜け出し頼朝のいる北条館を訪れましたが、頼朝が政子と恋仲になっていたため真珠ヶ淵に身を投げて入水自殺したとされています。

八重姫御堂


1180年後白河法皇皇子である以仁王が平家追討の令旨を諸国の源氏に発します。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死しましたが、頼朝はまだ動かず三嶋社で平家打倒を祈願しました。

三嶋大社


しかし、平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てます。頼朝は、自身が危機の中にあることを悟り挙兵を決意し坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけます。

源頼朝旗挙の碑


最初の標的となたのは、伊豆国目代山木兼隆です。治承4年(1180年)8月17日三嶋社祭礼の日に頼朝の命令で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取ります。

山木判官平兼隆館跡


頼朝は、20日僅かな兵で出発して相模国土肥郷へ向かいます。土肥實平は、相模国の有力豪族中村氏の一族『中村党』の有力な武士団を率いて参じたことで頼朝の信任を受けていました。

土肥實平公並婦人像


石橋山合戦に進軍する前夜、五所神社の社前で盛大な戦勝祈願の護摩を焚きます。一方、相模国三浦半島に本拠を置く三浦一族を待ちますが遠路のためか参陣が遅れている状況です。

五所神社


これに対し、平家方で相模国の武将である大庭景親は、所領を出発して、俣野景久・渋谷重国・海老名季貞・熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かいます。

宗賢院


23日頼朝は、300騎で石橋山に陣を構え以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせます。谷ひとつ隔てて大庭景親の軍が布陣、背後に伊東祐親が300騎を率いて石橋山の後山まで進出します。

伊東祐親像


景親は、三浦勢が到着する前に雌雄を決すべく夜戦を仕掛けます。闇夜の暴風雨の中で大乱戦となり、頼朝軍は工藤茂光、岡崎義実の子・佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗します。

ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地)


頼朝らは、辛くも土肥の椙山に逃げ込みます。翌24日大庭軍は追撃の手を緩めず山中をくまなく捜索し、梶原景時はしとどの窟に身を隠した頼朝らを発見しますが情をもって見逃します。

土肥椙山巌窟(しとどの窟)


九死に一生を得た頼朝らは、山を下り海に向かい真鶴にあるしとどの窟に身を隠します。追っ手が窟を覗くとシトトと言われる鳥が急に飛び出し、人影がないものとして立ち去ります。

しとどの窟




…8月28日源頼朝・土肥実平・土肥遠平・しんかいのあら次郎・土屋三郎 (宗遠) ・岡崎四郎(義実)・安達藤九郎盛長の7人、前日に北条時政・北条義時が安房国へ岩浦より船出します。

源頼朝船出の浜




今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

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