ウィリアム・ウィリス医師
1837年北アイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学び、卒業後はロンドンのミドルセックス病院で勤務します。
1862年駐日英国公使館の領事館付医官として来日します。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、6月26日第二次東禅寺事件に遭遇します。
同年9月14日生麦事件に遭遇した際、誰よりも真っ先に現場に向かい、英国人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行います。
1863年鹿児島で起きた薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たります。
1866年首席補佐官に昇進します。パークス公使・長崎の商人グラヴァーらと共に鹿児島に招待され、生麦事件をおこした島津久光らと会見します。
1867年パークス公使に随行し、15代将軍徳川慶喜に謁見するために大坂城へ出向きます。
1868年1月鳥羽・伏見の戦いが勃発し、京都から送還された会津藩の負傷兵の治療を大坂で行い、薩摩藩大山巌の要請で京都の薩摩藩野戦病院で西郷従道など負傷者の治療に当たります。
新政府の要請を受け、横浜野毛山に軍陣病院を開設し、江戸城無血開城後の7月上野戦争などの戦傷者治療をし、病院長として多くの医師達を指導しました。
また東北戦争では、北越戦線軍陣病院にて博愛精神に基づき、敵味方の区別なく旧幕府軍から会津藩兵に至る全ての負傷者の治療に当たり、日本に赤十字精神をもたらします。
1869年ウィリスは、東京医学校兼病院の創始者となります。しかし、蘭方医や一部政治家の思惑によりドイツ医学に方針が変更され、東京医学校兼病院長を退職します。
1870年西郷隆盛・医師石神良策の招きに応えイギリス外務省の副領事職を辞職して鹿児島医学校・鹿児島医学校病院を創設します。また、翌年鹿児島県士族江夏十郎の娘八重と結婚します。
1874年政府は台湾に約3600名の兵を出兵させますが、数百名の兵士が亜熱帯地域の風土病マラリアに罹患し送還されてきたので、ウィリスが治療し快復させました。
1877年2月西郷隆盛を盟主とした士族の武力反乱『西南戦争』が勃発します。鹿児島医学校兼病院は閉鎖になり、ウイリスは妻子同伴で鹿児島を離れ、8月妻子を東京に残して単身で帰英します。
…1881年再来日して職を探しますが、西郷隆盛と親しかった事もあり、日本での立ち位置が難しくなりイギリスに帰国します。日本の近代医学・公衆衛生・赤十字精神の基礎を築き、発展に大きく貢献されました。
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