芥川龍之介ゆかりの地を巡る
龍之介は、1892年3月1日築地居留地付近(東京市京橋区入船町8丁目)に牛乳製造販売業を営む、父新原敏三・母フクの長男として生まれます。
生後7か月頃、母フクが精神に異常をきたし、東京市本所区小泉町にある母の実家・芥川家に預けられ伯母フキに養育され、11歳時に母が亡くなります。
翌年、叔父・芥川道章 (フクの実兄)の養子になります。芥川家は、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主) の家で、芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていました。
1898年江東(こうとう)尋常小学校に入学(芥川卒業後は「江東」は「えひがし」と読む)、東京府立第三中学校を卒業の際は、「多年成績優等者」の賞状を受けます。
1910年中学成績優秀者が無試験入学の許可される制度により、第一高等学校第一部乙類英文科に入学します。全寮主義のため寄宿寮に入りますが、順応することはなかったようです。
1913年東京帝国大学文科大学英文学科へ進学します。当時は、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない超難関であったようです。
1915年代表作の1つとなる『羅生門』を帝国文学に発表し、翌年、新思潮の創刊号に掲載した『鼻』が夏目漱石に絶賛され、友人・久米正雄と漱石山房を訪れ、漱石と出会います。
芥川は、1916年東京帝国大学文科大学英文学科を卒業します。翌年、英文学者の推薦により海軍機関学校の英語教官となり、鎌倉に下宿し教鞭を執りながら創作に励み、短編作品を次々に発表します。
1918年2月日露戦争で戦艦「初瀬」沈没時に戦死した塚本善五郎の娘・塚本文と結婚します。同年3月から、八畳二間・六畳一間・四畳半二間・庭に水蓮の浮く池のある鎌倉大町にある離れを借りて新婚生活を送ります。
しかし、作家として立身したい芥川は、東京の文壇に置き去りにされる焦りもあり、1919年3月海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町の実家に戻ります。
その年、芥川が中心となり、「道閑会」という田端在住の作家と芸術家との親睦会が始まります。しかし、21年頃から神経衰弱・腸カタルなどを患い、徐々に心身が衰弱して行きます。
妻の文は、20年長男・22年次男・25年三男を出産し、1926年弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住します。龍之介も胃潰瘍・不眠症等が高じており、同年2月鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せます。
精神科医・歌人である斎藤茂吉は、龍之介に歌集『赤光』を絶賛され交流が始まり、主治医も務めます。1927年3月28日付手紙の小説『歯車』と同じ幻視等主訴に睡眠薬を処方し龍之介を支援します。
しかし、芥川は、同年7月24日未明『続・西方の人』を書き上げた後、斉藤からもらった睡眠薬を致死量飲んで服毒自殺します。満35歳没。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と語りかけたそうです。
…『水洟 (みづばな)や鼻の先だけ暮れ残る』と自殺の直前に書いた色紙の一句が辞世とされています。
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