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新田義貞公の鎌倉攻め



鎌倉幕府は、楠木正成討伐に膨大な軍資金が必要となります。北条高時は、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令し、元弘3年/正慶2年 (1333年)4月新田荘に金沢出雲介連・黒沼彦四郎が西隣の淵名荘から赴きます。

鎌倉市 北条執権邸旧跡碑


二人は、6万貫文の軍資金を僅か5日間という期限を設け納入を迫ります。特に黒沼が得宗の権威を笠に着て居丈高な姿勢をとり増長した為、遂に新田義貞は憤激して黒沼を斬り殺し、金沢を幽閉します。

太田市 新田荘遺跡(反町館跡)


覚悟を決めた義貞は、5月8日卯の刻(午前6時ごろ)新田荘にある生品明神社で僅か150騎と共に挙兵します。北方の笠懸野から東山道を通り上野国中央部を進み、新田一族ら越後の先発隊2千騎と利根川で合流します。

生品神社


その後、碓氷川を渡って八幡荘に到着します。越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派等の各地より参集した軍勢5千騎と合流すると義貞軍は9千騎に膨れ上がり、5月9日態勢を整えた義貞は武蔵に向けて出撃します。

新田義貞公銅像


同日義貞挙兵の報を受けて幕府の評定が鎌倉で行われます。翌10日桜田貞国を総大将、長崎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府軍5万が鎌倉街道の上ノ道より入間川へと向かいます。

仮粧坂切通


新田軍は鎌倉街道を進み、10日桜田貞国率いる3万の幕府軍と入間川を隔てて対峙します。11日朝義貞が川を渡り小手指原に達すると、幕府軍と衝突する『小手指原の戦い』が始まります。

小手指原古戦場跡


両者は、遭遇戦の形で合戦となり布陣の余裕はありませんでした。戦闘は30回以上の激戦となり、兵数は幕府軍が有利でしたが、幕府へ不満を募らせていた武蔵の御家人達の援護を得て次第に新田軍が有利となります。

白旗塚


その日は、日没までに新田軍が約300、幕府軍は約500の戦死者を出します。両軍共に激しく疲弊しており、新田軍は入間川まで、幕府軍は久米川まで撤退し、両軍共に軍勢を立て直します。

勢揃橋(旧久米川)


翌12日朝、新田軍8千騎が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛ける『久米川の戦い』が始まります。幕府軍は、奇襲に対する備えを講じますが、新田軍は幕府軍の鶴翼の陣による挟みこみ戦法を看破します。

東村山市 久米川古戦場跡


さらに、新田軍は戦法にかかった芝居をし、手薄な本陣を狙い打ちにします。長崎・加治軍は撃破され 、桜田貞国は数千の軍勢を纏め分倍河原まで退却し、義貞は八国山の頂に塚をつくり勝利の証として旗を立てます。

将軍塚


退却した桜田貞国軍は、再び分倍河原に布陣し、新田軍との決戦に備えます。事態を重く見た幕府側は、北条泰家を大将とする新手の軍勢10余万騎を派遣し、『多摩の横山』尾根の川崎側で篝火を焚いて息を潜めます。

多摩の横山(多摩丘陵)


義貞は15日未明、幕府側に援軍が加わった事を知らずに突撃を敢行します。1万の兵力で、15万の幕府軍と正面から激突する『分倍河原の戦い』で、持ち直した幕府軍から一方的に迎撃され、堀兼まで敗走します。

分倍河原古戦場碑


同日夜、三浦氏一族の大多和義勝が相模国の氏族を統率した軍勢8千騎で義貞に加勢します。翌16日早朝、義勝率いる2万の軍勢を先鋒として新田軍は4万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、幕府軍に大勝します。

新田義貞公之像


同日、新田義貞率いる討幕の主力軍9万騎は多摩川を渡ります。義貞自らが先陣を切り幕府軍本隊への総攻撃『関戸の戦い』を敢行し、幕府の関所である霞ノ関にて北条泰家率いる幕府軍の残存部隊7万騎を圧倒します。

関戸古戦場跡


この戦いの後、常陸や下野・上総の豪族達が兵を率いて続々と新田軍に合流します。勢いに乗った義貞の軍勢は数十万人規模に膨れ上がり、一気に鎌倉街道を進軍し鎌倉まで攻め上がります。

鎌倉街道


幕府は、鎌倉街道を進軍する約20万騎の新田軍に対策します。金沢貞将を化粧坂、大仏貞直を極楽寺坂切通し、北条守時を洲崎 (小袋坂・巨福呂坂切通し)に配置し、援軍が直ぐ対応出来る様に鎌倉中に兵を配置します。

巨福呂坂切通し


17日義貞は、関戸に一日逗留して体勢を立て直します。義貞の本隊は化粧坂切通し,大舘宗氏・江田行義の部隊は極楽寺坂切通し、堀口貞満・大島守之部隊は巨福呂坂切通しから、鎌倉を総攻撃する手はずをと整えます。

霞ノ関南木戸柵跡


18日明朝、義貞は村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂等の50余ヶ所に放火し、三方から攻め入ります。しかし、天険に守られた要塞鎌倉は盤石で攻撃は全て失敗し、一つの部隊も突破することが出来ませんでした。

腰越


同日、新田軍の極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破します。しかし、鎌倉への進路を打開しようとして成功はしたものの、大仏貞直の迎撃によって、稲瀬川付近で新田軍11人が討死します。

十一人塚


一方、洲崎方面では第十六代執権・北条守時が、奮戦します。御家人筆頭・足利高氏(尊氏)による六波羅探題攻めの汚名挽回に、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、激しい攻防戦の末自害しました。

洲崎古戦場の碑


大舘宗氏の戦死により、極楽寺坂方面での指揮系統が失われます。20日義貞は、化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移して指揮を取ります。

脇屋義助公像


5月20日夜半、義貞は援軍として稲村ヶ崎へと駆け付けます。しかし、幕府側の防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木、海には軍船が配置されて通行する軍勢を射抜けるようになっていました。

稲村ヶ崎


そこで、義貞が5月21日未明に奇跡を願い黄金作りの太刀を海に投じます。すると、龍神が呼応して潮が引く様な大規模な干潮が起こって道が開け、新田軍は稲村ヶ崎の突破に成功します。

新田義貞公銅像


勢いに乗る義貞率いる軍勢は、稲生川付近の民家に火を放ち、由比ヶ浜で激戦を繰り広げます。さらに、新田軍10万騎が鎌倉へ一気に乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして徹底的に壊滅させ鎌倉を蹂躙します。

鎌倉(勝上巚展望台)


5月22日北条高時・北条貞顕・長崎高資など一族・家臣283人は、菩提寺の東勝寺に集合した後、切腹・寺に火を放つなどにより自害します。同日守邦親王は将軍職を退き出家し、5月25日九州の鎮西探題も陥落します。

東勝寺跡




…6月5日建武の新政を開始した後醍醐天皇は北条氏の霊を弔う為、高時屋敷跡地に宝戒寺建立を足利尊氏に命じます。現在、境内は四季の花が咲き、秋には白いハギで埋め尽くされる『萩の寺』として親しまれています。

宝戒寺




今回の記事は以上です。最後まで読んで頂き有難うございました😃

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