エヘンエヘン坂本龍馬③
文久3年(1863年)8月13日孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられます。14日吉村寅太郎ら攘夷派浪士約40名(天誅組)が先鋒となるべく、伏見から淀川を下り海路で堺に16日上陸し大和に向かいます。
しかし、孝明天皇は幕府による攘夷を求め、8月18日『八月十八日の政変』が起きます。長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み京都の政情は一変し、公武合体派が再び実権を握ります。
これにより、天誅組は政変により一転して逆賊とされ幕府軍の追討を受け壊滅します。土佐勤王党にも、山内容堂が政変以後は弾圧を強めて、 武市を筆頭に土佐に戻った主要な勤王党員を軒並み投獄します。
龍馬は、翌元治元年(1864年) 2月、前年に申請した帰国延期申請が拒否されますが、藩命を無視して再度脱藩します。5月14日海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足します。
楢崎龍(お龍)の父は侍医でしたが病死し、お龍は七条新地の旅館で働きます。母と妹が、方広寺大仏殿(京の大仏)近くの土佐藩出身の尊攘派志士達の隠れ家で賄いをするようになり、その縁で5月龍馬とお龍は出会います。
6月5日新撰組が、京都三条小橋の旅籠・池田屋で長州・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃する事件が起きます。17日龍馬は海舟と会合し、京摂の過激の輩達を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話しますが頓挫します。
長州藩は、八月十八日の政変・池田屋事件後薩摩・会津藩により一掃されます。7月19日京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍しますが、一日の戦闘で幕府勢力敗れます(禁門の変)。
三条実美ら公家は、八月十八日の政変で長州に落ち延び『七卿落ち』と言われます。失地回復のため再度上京中の公卿5人は、禁門の変での長州敗北を知り、多度津港から鞆港に引き返し、中村家で軍議を重ね西下します。
そんな動乱の最中8月1日、坂本龍馬・お龍は内祝言をあげます。お龍の亡父・楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であった縁により、青蓮院塔頭・金蔵寺の住職・智息院の媒酌により行われたようです。
イギリスは、長州藩による前年からの海上封鎖で多大な経済的損失を受けます。フランス・オランダ・ アメリカと連合艦隊を編成し、8月5日馬関・彦島の砲台を徹底的に砲撃し、各国陸戦隊が占拠・破壊します。
勝海舟は、池田屋事件・禁門の変で塾生が長州軍に参加した事が問題視されます。10月22日江戸召還、11月10日軍艦奉行罷免となり、神戸海軍操練所廃止を予期し薩摩藩城代家老の小松帯刀に塾生の庇護を依頼します。
第一次長州征伐により、禁門の変で上京した長州藩三家老は切腹・四参謀は斬首・五卿は追放となります。11月11日徳山藩で国司親相・益田親施、12日岩国藩で福原元間が切腹となり、四参謀も野山獄で斬首されます。
しかし、五卿は11月15日長州正義派諸隊に同行して長府藩・功山寺を滞在所とします。12月3日福岡藩の月形洗蔵が寺に赴いて三条実美と面会し、12月8日奇兵隊の赤禰武人が萩より長府に帰還し恭順を提案します。
俗論派の説得により五卿は退去・諸隊は恭順の空気が広まります。諸隊の消極的な態度に憤激した高杉晋作は、演説し戦う事を主張しますが、無謀だと反対され激しく対立する中、12月15日僅かな兵と共に挙兵します。
しかし、諸隊は、次第に馬関・山口の住民に支援されます。多くの人士が入隊を希望し、地主・豪商が兵糧や多額の金銭を寄附する様になり、元治2年(1865年)3月クーデターは成功し、長州藩を再び倒幕へと導きます。
…そんな中、同年3月12日神戸海軍操練所は廃止となってしまいます。しかし、龍馬ら塾生の航海術を重視した薩摩藩の援助を得て、5月頃長崎で亀山社中が結成されます。
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