終戦からサンフランシスコ平和条約までの道のり 下
第23回総選挙で日本社会党が比較第一党となり、1947年5月24日片山内閣が誕生します。社会主義政策の炭鉱国家管理法を国会に提出した結果、反発した炭鉱主側が政界工作します。
臨時石炭鉱業管理法が、同年12月20日公布されます。しかし、炭鉱主側に配慮した時限立法で国家管理とは程遠く政権運営にも行き詰り、翌1948年3月10日片山内閣は総辞職します。
同日片山内閣副総理だった芦田均が、内閣総理大臣に就任します。しかし、『政権のたらい回し』と厳しく批判された上、昭和電工事件で総崩れとなり、同年10月7日内閣総辞職します。
吉田茂の内閣総理大臣指名を阻止しようとするGHQ民政局による山崎首班工作事件が失敗し、1948年10月15日第2次吉田内閣が、保守政党の民主自由党単独政権で発足します。
同年11月4-12日東京裁判でA級戦犯28名(病死2名と訴追免除1名を除く)に全員有罪の判決が言い渡されます。7人の絞首刑執行は、12月23日午前0時頃巣鴨プリズンで行われます。
その後、7人の遺体は横浜市の久保山斎場で米軍によって秘密裏に火葬されます。遺骨は遺族に渡さず敗戦国刑死者が神聖視されない様、小型軍用機で太平洋に散骨されたようです。
しかし、同年12月25日小磯国昭の弁護人だった三文字正平が、久保山斎場から僅かな遺灰を夜中に回収し、近くの興禅寺に預けた後、伊豆山中の興亜観音に密かに葬られたそうです。
与野党双方の憲法解釈が一致せず、GHQ主導下で衆議院解散のシナリオが作られます。内閣不信任案成立・衆議院解散・総選挙の運びとなり1949年2月16日第3次吉田内閣が成立します。
氷川丸は、船体が病院船の赤十字から黒色に塗り替えられ、国内の定期航路を運航していましたが、同年9月GHQから外国航路が許可され、タイ・ビルマから日本に米輸送を行います。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させる事にします。7月8日マッカーサーは、吉田に警察予備隊の設置と海上保安庁の増員を要請します。
吉田茂は、朝鮮戦争の勃発を講和のチャンスと捉え、表向きは財政の研究で訪米させた右腕の池田勇人に、講和条約案をアメリカ国務省・国防省の高官に内示させる下交渉を図らせます。
吉田茂は、米講和特使ジョン・フォスター・ダレスと翌1951年1月29日GHQ外交局で会談します。第2・3次会談後、米国との安全保障取決めを歓迎し自衛責任を認識する声明をします。
同年3月27日日本は、米政府作成の対日講和条約草案の交付を受けます。同年4月18日ダレス特使・連合国最高司令官リッジウェー・吉田首相がGHQ本部で3者会談し取決を確認します。
1951年7月20日米英共同で全50ヶ国に招請状が発送され、日本政府は米政府から講和会議への招請状を受理します。首席全権・吉田茂に戦後第1号のパスポートが発給されます。
同年9月4-8日サンフランシスコ市のオペラハウスにおいて、全52カ国の代表が参加して講和会議が開催されます。9月8日平和条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕します。
同9月8日講和条約に続いて日本とアメリカ代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地に移動します。吉田は、日本国・アメリカ合衆国との安全保障条約に単独で調印します。
同年10月26日衆議院が締結を承認、11月18日参議院が締結を承認し内閣が条約を批准、翌日昭和天皇が批准書を認証され、11月28日アメリカ合衆国政府に批准書が寄託されます。
…条約第23条第1項の規定により、米国政府が批准書寄託を完了した、1952年4月28日に条約が発効します。そしてついに、GHQ占領下から日本は正式に国家として主権を回復します。
(参考文献)
C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン / 飛田時雄著 / 岡村青構成/ 草思社 2011. 4
吉田茂=マッカーサー往復書簡集〔194 5-1951〕 / 講談社学術文庫 / 袖井林二郎 編訳 / 講談社 2012.7.1
今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊
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