岐阜考察5 西濃②
姉妹都市
岐阜県の姉妹都市は中国の江西省と鹿児島県である。なぜか名前の由来となった岐山のある陝西省や曲阜のある山東省は姉妹都市になっていない。江西省については情報が少なすぎて岐阜県との関係が不明である。
その一方、鹿児島県と岐阜県の関係は一般的に知られていないが意外と長い歴史がある。
木曽三川と輪中
岐阜県の県民性を表す言葉に、輪中(わじゅう)根性というものがある。よく言えば自分の所属する組織への従属性の高さ、均質性の尊重、悪く言えば排他性である。
輪中というのは、西濃地方の濃尾平野に掛かる地域に点在した、堤防に囲われた中で集住する集落を指す。この地域は海抜0mの低い土地に木曽三川と呼ばれる木曽川、揖斐川、長良川を抱えてしまったため、古くから洪水に悩まされてきた。そんな中で生きるために採った策が、集落ごと堤防で囲ってしまうことだった。
同じ輪中の中に住む人々は運命共同体として強い結束が求められた。なぜなら、日ごろから堤防の維持・管理は共同作業として行われ、洪水に見舞われていざとなったときは文字通り運命を共にしなければならなかったからである。
他方、他の輪中に対しては排他的であった。川の上流と下流に位置する輪中同士は特に仲が悪かった。
輪中が洪水に耐えられなくなると、堤防の上流側と下流側の一部を敢えて崩してそこから水の勢いを逃がし、堤防全体が崩れるのを防いだ。これをやると、被害を受けるのは下流側の輪中である。上流側の輪中が負担していた水の勢いを引き受ける羽目になるので下流の堤防も程なく堤切れしてしまう運命にあった。
私の通った小学校の5年生の社会見学先は西濃地方にある木曽三川公園だった。道中のバスでこの輪中の不幸に関するアニメーションビデオを見せられ、到着する頃にはテンションはダウナーなポジションにセットされていた。残念ながら東濃から西濃までの間には岐阜県民を無条件に熱くさせる海もなかった。
天下泰平と明治維新と治水
木曽三川の氾濫は有史以来、西濃地方を悩ませてきたが効果的な方策が打てないままだった。そんな折、これもまた西濃地方にある関が原で、日本を西軍と東軍に二分した天下分け目の合戦が行われていた。時に西暦1600年のことである。このとき、敗れた西軍に属し、周囲を敵に囲まれながら正面突破して帰国した大名家がいた。薩摩の島津氏である。
捨てがまりという戦法を用いた「島津の退き口」と呼ばれる凄惨な撤退戦を経て薩摩へ戻った島津氏は大減封を受けながらも、薩摩、大隈国を有する強力な外様大名として江戸幕府に出仕することとなる。
それから160年ほど過ぎた宝暦年間に幕府から薩摩藩へ木曽三川の治水工事が下命された。はっきり言って、薩摩藩と木曽三川は全くの無関係である。幕府の嫌がらせに他ならなかった。
工期は1年足らずの短いものだったにも関わらず、難工事は200名弱もの死傷者と50名を超える自害者を出し、挙句薩摩藩の治水責任者は工事の終了と共に切腹して果てた。工事にかかった費用は薩摩藩負担であったため、彼らは自らに利益がない事業で大きな借金を背負う羽目になった。これにより薩摩藩は100年ほどの雌伏の期間に入る。
彼らが再び歴史の表舞台に現れるのは明治維新前夜のことである。調所広郷による砂糖の専売と借金の無金利250年返済化により財力を蓄え、雄藩と呼ばれるに至った薩摩藩が今までの幕府ヘの恨みを晴らすがごとく、倒幕へ邁進していく。
天下泰平の260年の内の後半100年は西濃によってもたらされ、西濃によって終わらせられたのかもしれない。