中島らも『永遠も半ばを過ぎて』
私は昨年一年間、ゴルフにはまっていた。ゴルフはとても不思議なスポーツである。十分に素振りをして、得心したところでボールに向かい、練習と同じようにスイングしてもクラブのヘッドがボールにうまく当たらないのである。これが野球ならば、ピッチャーの投げたボールにバットが当たらないのは理解ができる。動くボール、まして相手が意図を持って当てられないように投げたボールに正確にヒットさせることは誰が考えても難しい。
しかしゴルフはそうではない。ボールは動かず、常にそこにある。悪いのは当てることを意識してスイングを崩した自分である。微動だにしないボールに対して、空振りした瞬間など、まさにひとり相撲という言葉がお似合いである。
私が『永遠を半ばを過ぎて』を初めて読んだ時の感想は、このゴルフの感覚に似ていた。
この本には真善美を備えた完全な何かと、それを取り巻くまがい物の2つが登場する。
真善美を備えた完全な何かは、主人公が生業とする写植屋をする中で、彼の中に堆積した言葉の澱の中で息づき、薬の力を借りてこの世に産み落とされる。
永遠も半ばを過ぎた。
私とリーは丘の上にいて
鐘がたしかにそれを告げるのを聞いた。
その何かは、美しい文章の形を取っていた。主人公達はそれを、自動筆記で幽霊が書いた本と偽って大々的に世に発表する。それは文壇に騒動を巻き起こし、真偽を巡る論争を巻き起こす。人々は、真善美を備えた美しい文章を軸に、自分の立ち位置を決めて、各々が向き合おうとする。利用するもの、理解しようとするもの、などなど。この騒動が、止まったボールを前に右往左往するゴルフプレイヤーを連想させる。