朝は燃えているか
BUMP OF CHICKENの歌に、「真っ赤な空を見ただろうか」というものがある。私はずっと、「真っ赤な夕日を見ただろうか」と覚えていた。
Googleで検索をかけると、予測に「真っ赤な夕日を見ただろうか」が出てくるので、同じような勘違いをしている人が一定数いるのだろう。一方で空を朝日に置き換えても予測には出てこない。
なぜ真っ赤な空と言われて無意識に夕焼けを連想したのか。いろいろ考えた結果、そもそも真っ赤な朝焼けを見たことがないのでは?という可能性に行きついた。
まずもって普通に生活していて朝焼けを見る頻度は夕焼けに比べて圧倒的に少ない。夕焼けは何事もなければ毎日難なくその時を迎えることができる。1年の3分の1が曇りか雨と仮定しても、成人するまでに5,000回近く夕焼けを目にしている計算になる。一方、朝焼けは意思をもって早起きをするか、徹夜をしない限りは拝むことができない。私の場合多く見積もっても、100回もないだろう。単純比較して、目にした回数は50:1。夕焼けが圧倒している。
もちろん数が少ない分、限られた中に強烈な経験があれば、それだけ引き立って印象付けられるはずだ。思えば、夕焼けの記憶に名前の付いたものは少ないが、朝焼けを見るような時間に起きていた記憶には、何がしかの名前がついている。テストや締め切りに追われる夜を乗り越えた朝、飲み会でオールした後に迎えた倦怠感のある朝、その時私は真っ赤な朝日を目にしていたはずだ。
しかしいくら思い返せど、空が燃えるように赤く焼けていた記憶がない。いつも気づくと夜が白み、暗闇の中から水彩画のように色の薄れた景色が現れ、空を見上げると酷使した目に罰を与えるかの如く、質量をもった破壊光線と化した朝日が網膜を圧迫する。あの眼球を日光が指圧するかのような強烈な光には覚えがあるが、赤く焼けた景色はついぞ思い出せない。
私の中で朝日とは、景色ではなく光線なのかもしれない。