「遊び」はそれ自体が目的
以前のノートに、「遊びは、それ自体が目的である。何かのために遊ぶのではない」と書きました。
「遊ぶために働いている」という話は、よく聞きますが、「何かを得るために遊ぶ」という人はほとんどいないでしょう。「遊ぶ」ことは、それ自体が目的になっている。だから無邪気に夢中になれる。「とても濃い時間を過ごしている」と言えましょう。
一方、ある行動が別の何かのための手段になっている場合。たとえば「午後の仕事を頑張るために、昼ご飯を食べる」というようになると、昼ご飯それ自体の趣が色あせてしまいます。
「人生の目的」を模索するう時期もあるでしょうが、何かを得るために、または何かを達成するために、今日を犠牲にしたり、人生を手段にしたりしないほうがいいと思いますよ。人は、いつ死ぬかわかりませんからね。
そのときその場で「やりたいこと、やるべきこと」をやる。もし、何かを達成したとしたら、それを目的に頑張ったというよりは「結果的にそうなった、いつの間にかそうなっていた」というのがいい。
「この世という広大な広場で、迎えが来るまで遊ばせてもらっている」。こんな感覚で過ごせたら、軽やかな気分で安心していられることでしょう。