「共感」-『帰ってきたヒトラー』を観て
二度にわたる世界を巻き込んだ大戦は終結し、軍事の為の科学技術は加速度的に一般への普及を見せた。テレビは薄型となり、IT技術の発展により誰もが誰とでも繋がりを持てるようになった。科学技術はとどまることを知らず、今尚傾斜がかった成長を続け、人類はもはや地球にとどまることを知らない。もう、国家間や民族間、宗教間といた地域性に縛られる時代は終わったといえるだろう。
とある少年が安易な考えでソーシャルネットワーキングサービス(SNS)に少数派を蔑視するような発言を投稿したとしよう。この投稿はネットワークに接続されている限り、”誰もが”見ることが可能である。例え非公開設定をしているアカウントでも、その発言はサービスを提供している企業によって簡単に見られるのだから、決してこの発言に隠密性は伴わない。
では、この前提を踏まえて、少年の発言に対して世界(人々)がどのような行動にでるのかを考えてみる。まず、少年の投稿は一分もかからないうちに世界の隅々にまで轟き、誰もがその発言に容易にアクセスできるようになる。例えば、その投稿に何者かが返信を送ったとする。この返信は少数派蔑視への賛成か反対か。よっぽどのバカでは無い限りSNSという誰が何時何処で見ているのかもわからない場で賛成などするはずがないのだから、十中八九批判の意見であろう。この返信は少年の発言と同じようにただちに世界への拡散をみせる。
少し話を逸らそう。
冒頭で述べたように、個人は世界に容易に接続できるようになり、人類コミュニティは今までの地域的なものから国際的なものへと変化を遂げた。国際的なコミュニティの形成は情報の量・速度・質ともに大きな向上をもたらし、衣食住の面で飛躍的な進歩を我々にもたらす。
「人が生きる上で絶対的に必要な衣食住の質が全体的に向上したのなら国際的になるのはいいことではないか。」「現在から隔離されてしまっている地域もボランティア活動を通して巻き込んでいこう」「差別は良くない。相手を不快にする。」
ごもっともな意見だ。私もこれらの意見に賛成するし、国際社会においてこれらの意見は多くの支持を得られる道理があろう。
でもここで、再び疑問が浮かぶ。国際社会においてこれらの発言に優位性が存在することは間違いない。しかし、一体何故そもそも私たちはこれらの個人単位の、地域単位の小さな発言に丁寧に耳を傾け、インターネットでその意見を評価・発信しているのだろうか。
意見に対する自分の意見ならば心の内にしまっておいても良いはずだ。少なくとも、インターネットの普及がみられない二十世紀初頭の地域性が強くでる社会であったら、小さな意見への意見は無限のつながりを見せる外界へは持ち出されなかったはずだ。これは、地域性があるということは地域色がでているということであり、大多数の人と同じ意見である場合の方が多いのだから、わざわざ口に出す必要がないからだ。
それでは、疑問に戻る。何故現代人はわざわざ、意見への意見を口にするのか。難題だと感じた数学の問題が解答を見ると実にシンプルで分かりやすいものであると感じるように、この一見難問ともとれる質問への答えは極めて単純だ。
答え:「共感」
まだ地域に縛られていた頃、人々は地域に縛られることで個人を取り囲む外堀を埋め、共感を日常的に摂取していた。この社会動物にとっての潤い「共感」が精神を満たし、現在に至るまでの高度な技術を築き上げた根源ともいえるだろう。しかし、コミュニティ規模が国際的となり、個人がカテゴライズされた存在ではなく、独立した存在となった現代では、共感を日常的に得ることのできる環境の数は大幅に減っている。この環境の変化がもたらしたことこそが、「20~39歳の死亡原因第一位『自殺』(平成29年)」というデータだ。
話を少年の発言に戻そう。少年の発言に対して世界はどのような行動にでるか。この投稿に返信した者のように無意識的な共感への飢えにより、世界は少年へ「意見」をする、がこの問への答えだ。
国際時代の到来は多くの人を巻き込み、更なる拡張を見せている。一国家よりグローバル企業が及ぼす影響力の方が強いことが、この事実を証明する最たる例だろう。多種多様な人々が同一環境にて共存するということは、転ぶきっかけとなってしまう要素は排他されるということで、この国際化こそが現在問題視される多くの解なき問とも結びつく。
何事も「安定」を求める社会、自殺が死亡原因第一位に輝く社会。今こそ、国際性の増長によって欠損した「共感」を用いて変革を起こすときなのではないだろうか。この混沌の時代を解く上で最も重要な要素は「共感」なのではないかと『帰ってきたヒトラー』を観て思った。