52歳に、なりました
旧年中は、実家実父・芳男の逝去と、実家愛犬・さんた、山本家愛猫のわさびと相次いでお別れし、寂寥感と共に年末を迎えました。今年は年末に海外に無理に出る必要もなく落ち着いて暮らせるかと思いきや、ほうぼうに駆り出されて非常に慌ただしく大晦日も元旦も作業に追われるといういい歳して何してんだろう私というような日々でした。
そんな中、今年も無事生き抜いて52歳になりました。
人生50年と言いつつ割と元気に家族と共に幸せな人生を歩んでこられたことを、神と、家内と子どもたち、親族含めてすべての皆さんに感謝したいと思っております。
この一年は、いままでよりも、また、想定よりもさらに公のお仕事が増えて、ご期待を戴く機会に多く恵まれました。失うものも多かったですが、それ以上に、自分の人生において展望が大きく拓けた51歳ではなかったかと存じます。これは、私の能力というよりは、いままでの出会い、そして温かい交流をほうぼうでさせていただく中で「まあ、あいつなら」と消去法でも選んで戴ける幸運も多かったのではないかと思っています。
本業の投資関連も、上手くいって良かったなといったところなんですが… 慌ただしく浮ついた感じで何かを大きく手を入れたとか、手法を変えて一歩踏み出したとかそういう能動的に頑張って上手くいったというよりは、過去にもう半ば諦めていた案件が関係者の努力によって再興して実を結ぶというザ他力本願のような形で米ドル資産が増えるとかそういう感じです。運も実力のうちと言われるものの、どう考えても自分の実力ではなく、お恥ずかしい限りであります。
子どもたちも、いろいろと浮き沈みありつつ順調にすくすくと育っており、ムカつくことも増えました。親に似ず、人の言うことをまったく聞かないので好きにすればと思いながらも、やりたいことを両手いっぱいに抱えて楽しく日々を過ごしているようで何よりです。子どもが育つということは、私も家内も老いるということに他ならないわけですけれども、こうやって幸せに暮らしていけているのも仕事も家庭も順調になるよう環境を整えてくれている家内の頑張りであることは間違いなく、感謝しかありません。
いままでの人生で、ミッションを固めることはあっても明確な抱負を描くことのなかった私ですが、52歳にして、ついに決断した今年のテーマは
「自分にしか、できない仕事をする」
に決めました。人生まあ取り換えが効くのが社会であり、組織的に属人性の強いものは排除しながら堅実に仕事を粛々と進めていくのが正しい在り方だと信じてきたのですが、去年、さまざまなお仕事をご依頼いただいて、ハタと「これ、何で私がやらされているんだろう」という疑問から「あ、確かにこれは私しかやらない(できない)仕事だ」と実感することが多くなってきました。そこから、割と霧が晴れたように「これは誰でもできる仕事だから振ろう」やら「ここは私が決めてご建議したり指示出したりしないと進まない話だろうな」などの、案件の目利きがかなりできるようになり、さらに、そこから「きっとこうすれば、そこに着地するだろう」という予想まで当てられるようになってきました。
思い返せば、新潟大学の大学院博士課程の門を叩いたのも、さまざまなご縁を頂戴するなから拝借するお知恵を総合して叩き台ペーパーを作るのも、いままでやってきた業務の単なる延長ではなく、人生と仕事に深みを与えるしっかりとしたベクトルだったのかなあと。親父が亡くなって、介護が少しだけ楽になり、ようやく自分はどう自分で処すべきかを考える余裕ができたといいますか。
人からどう思われようと神が与え賜うしこの精神が『正しい』と導く方向を信じて、自分なりに真面目に愚直に歩んできたことに対する恵みなのではないかと強く感じます。
気のせいかもしれないけど。ただ、そんな気持ちも抱きつつ、今年も一年力強く生き抜いてまいりたいと存じます。重ねて、愛しい家内と子どもたちの健康と幸福を感謝と共に。
私に関わるすべての人々に、限りない情愛を。自らに降りかかるすべてを受け入れる強い心を、そして本稿を読まれた皆さまやそのご家族にもさらなるご多幸と飛躍の一年となればと、心よりお祈り申し上げます。