はあちゅう(伊藤春香)さんの誹謗中傷に対する謝罪について(修正あり)
今日、東京地裁民事9部に行った人たちから「はあちゅうこと伊藤春香」名義で裁判の期日が入っていたようだと連絡がありました。きっと伊藤春香さんも強く生きているのでしょう。
で、懐かしくなって、はあちゅうさんの過去の著作を引っ張り出して拝読したりしておりました。ただ、はあちゅうさんのいつも日常的にチェックして楽しませていただいている『旦那観察日記』も「しばらくの間、猿の漫画をお休みする」と書かれていました。非常に残念なことです。
さらに書き込みを見に行ったら、はあちゅうさんに誹謗中傷した人は謝罪を自発的にしてほしい的な内容が書かれていました。「謝ってくれて、アカウント消したり、鍵かけたり、今後何もしないと約束してくれるなら、こちらもそれ以上追うつもりないです」ってことらしいので、はあちゅうさんは誹謗中傷の責任を取って今後何もしないということで『旦那観察日記』をお休みされるということなのでしょうか。
はあちゅう(伊藤春香)さんに謝罪されるような誹謗中傷を私が直接受けたことはありませんが、先日、文春オンラインではあちゅうさんについて記事を書かせていただきました。
私は医師の宋美玄さんと一緒になって「はあちゅうさんの二の腕が太い」などと書いたと批判をされました。しかし実際にはそんなことはなく、あくまで以下のはあちゅうさん自身のツイートをリツイートしたまでであって、それを書いたのははあちゅうさんです。なぜかその後ツイートを削除されておりますが、記念にスクリーンショットをご用意させていただきました。
http://web.archive.org/web/20190612013552/https://twitter.com/ha_chu/status/378165945945964544
思い返せばこれ7年ぐらい前のことなんですよねえ。読みようによっては、ここでいう「モテなそうなおっさん」は私も含まれる可能性はあるのかもしれませんが、はあちゅうさんに対して「セックスさせろ」なんて言ったことなど当然ございませんし、私にも選ぶ権利がございます。
セックス問題で言うならば、はあちゅうさんはご自身の論述を多くの人に読んでもらう目的で、ノリとして「童貞いじり」を繰り返しておられました。もちろん、書き手として、いわゆる「若書き」という、仕事なら何でもやるという下積み時代があっておかしくはないのです。
ただ、プロレスラーが引退と撤回を繰り返すのと同じく、はあちゅうさんも問題を認めて一度は謝罪したかと思いきや、今度は謝罪を撤回して世の中に火柱の燃料となる火薬を打ち込みます。そもそも『自己愛』とはそういうものなのだと言われればそれまでですが、私自身も家内と結婚した後に童貞を捨てた遅咲きの人間として、揶揄として「童貞はキモい」的なものは自虐的な同調はするものの思い返せば辛い思いもしたなあとも感じます。子どもも4人できてなお、長かった童貞時代というのは振り返るとたいして良い思い出でもないのです。ああ、カネはあってもモテなかったなあ、と。
私個人の経験で申し上げますならば、「セックスがしたかった」というよりは、世の中の流れに置いていかれて、ああ、私は子どもを儲けるどころか結婚もできずに人生を送っていくのかなあという漠然とした不安を抱えていたのです。周りは女性とくっついたり離れたり、悩みながらも潤いのある生活をしているのに、私はなんなんだろう。そう思うと、やはり焦ります。やっぱり子どもは好きだし、また、当時まだ30代で、残り50年とか最大70年とか人生という時間が残されている中で、家族を構えられずに独りぼっちで暮らしていくのかという恐怖であります。
もっとも、私の場合は笑い話で済ませられていて、好きな人ができて運よく結婚できて、子どもも4人いて家族に囲まれながら幸せに暮らしているので「何だよ、童貞ごときで煽ってアクセス集めて飯の種にするなよ」という反応で済ませられます。でも、童貞という点で言えば少なくない男性が抱える共通の悩みであり、非モテもおひとりさまも決して無視できないぐらい日本社会には課題を抱えています。これを馬鹿にするわけですから、それ相応の童貞男性がはあちゅうさんに批判的な言動をとるのも当然と言えます。
見ようによっては、独身男性、とりわけセックス未経験の男性に対する容赦ない差別をはあちゅうさんはしているとも指摘できる話ですから。
言われてみれば、はあちゅうさんの『童貞いじり』というのは俗にいう『男性差別』の文脈で言えば先日経沢香保子社長率いるキッズライン社の「男性シッターはサービス一時利用停止」にも匹敵する思想、考え方だったなあと思うのです。前職のトレンダーズ社では文字通り経沢香保子さんとはあちゅうさんは上司部下の関係にあり、そこで実施されていた美容サイトでは医療的に課題の多い「血液クレンジング」のステルスマーケティングのようなものを手掛けられていたようにも見受けられます。
そして、そういうマインドをある意味で継承してきたのが、先日大ブレークを果たした箕輪厚介さん擁する「箕輪編集室」です。
まあ、要するにそういうウェイ系のセレブリティ(死語)は似たようなメンタリティを持つのかもしれませんが、はあちゅうさんのサロンで持ち上がったセクハラ告発への対処と、今回の箕輪厚介さんの微妙な顛末と、キッズライン社で男性シッターによるわいせつ事件を半年間放置してどうにもならなくなって「男性シッター全員サービス一時停止」まで噴き上がった経沢香保子さんのキッズライン社と、全部この辺同根よなとも思うわけです。
もちろん、作家としてのはあちゅうさんも、編集者としての箕輪厚介さんも才能のある人ですよ。だからこそ、頭一つどころか、その界隈ではトップクラスの影響力を持ってきました。経沢香保子さんの経営手腕は知りませんが。ただ、自分可愛さゆえに、また、周りもおだてるだけおだてて、きちんとモノを申してくれる人が周りにいなかったのではないかと。そう感じます。
このかんねこさんのツイートに続く顛末を読むと、はあちゅうさんのサロンで何が起きていたのか何となく理解できます。当然これ単体はかんねこさんの個人の経験と感想に過ぎませんが、周辺で確認できる経緯からして信用できる内容だろうと思います。
自分本位であり、責任を取らないから、言いたいことを言って、周辺を傷つけながらも仲間内で盛り上がってしまう。悲しいことに、周りには信者ばかりを固めることになるので自省することもなく、問題を起こして行き詰まるまで突っ走ってしまう。自戒するべきは誹謗中傷に対して拳を振り上げることではなく、まあそういうアンチもいるよね、まあそういう意見もあるねと弁えたうえで冷静になって粛々とやるべきことをやるのが大事なのかもしれません。
溢れ出る自己愛と過剰な露出欲と無限の肯定感の連鎖は往々にして人を狂わせると思うのですが、ドクダミ淑子さんもまた、この構造を鋭く抉っている書き手の一人です。
https://www.dokudamiyoshiko.com/entry/20200603/1591182000
で、元となっているツイートはおそらくこれです。
簡単に言えば、仕事や打ち合わせのために赴いたカフェで、ボールペンなど筆記用具を忘れたサザエさんが、筆記用具を忘れたのは自分である(問題の原因は自分にある)にも関わらず、カフェに筆記用具のレンタルがないことに憤りを感じるが、Twitterで「カフェに筆記用具はないのはムカつく」と書くわけにもいかず、カフェを流行らせるビジネスアイデアとして「筆記用具を貸し出したらどうか」と控えめに書いた。
それを見たドクダミ淑子さん、普通は筆記用具を忘れたら自分のせいなのだからコンビニで買うとか普通考えるだろと火の玉ストレートの反論と併せてはあちゅうさんの自己愛について過不足なく言及という流れです。
すべての判断が自分本位で身勝手なんだなあと指摘するような内容ではありますが、私の拙い経験からしますと、はあちゅうさんを取り巻く誹謗中傷や過剰な表現の批判については、本人の知名度や過去の言動も踏まえたうえで、やはり一定程度は受忍限度内という判断が出るものなのではないかとも思います。私も非常に穏やかで慎み深く表現には気を遣っている人間ではございますが、過去に数多経験した裁判で申しますならば、言論人同士の論争で、どちらかがいきり立って本訴になっても裁判官から「お前も相応の著名人で、批判されても何らおかしくない議論を公然としておったやろ」と優しく門前払いされるのがオチです。
また、はあちゅうさんはネット上での情報拡散において、トイアンナさんから間違った情報を広められたという主張で代理人を立てて法的紛争を試みたたものの、トイアンナさんに速攻で誹謗中傷の法務に詳しい弁護士・清水陽平先生を立てられてしまい、お通夜のような静かな結末を迎えたことも記憶に新しくございます。
そのトイアンナさんは、一連の女子プロレスラーさんの自殺事件やはあちゅうさんの顛末についても踏まえて、こんな記事を書いておられます。
突き詰めれば、普通に妊活をしたり、結婚(事実婚)生活を通じて感じたことについて得た感情を、ありのまま読者に伝えていけば共感も得られ作家としての技量相応の評価をはあちゅうさんは得られたはずなんですよ。
ただ、そもそも結婚以前に童貞で悩んでいる男性たちを公然と揶揄し、サロン内でのセクハラ騒動について見て見ぬふりをして会員の離散を招いて解散し、むしろ自らが率先して知人女性を紹介してきたにも関わらず広告代理店のエースクリエイターがセクハラをしたとネタ告発して日本の #metoo 活動をマントル以下まで低迷させたり、適切とは言えない血液クレンジング療法ほか微妙医療クリニックの紹介を繰り広げたり、それについて報じたBuzzFeed神庭亮介さんに噛みついて逆に反論されて沈黙をしたり、枚挙にいとまがないぐらいにいろんな事件を起こしていちいち面白かったのです。
しかしながら、さすがに時代も下り、読み手もファンも年齢相応の層へと移り変わって、AV男優と事実婚して育児録をネットで公開し「人生コンテンツ」とするには、さすがに匂いがキツくなってきました。虐待とまでは言えないけど、ネタにしてはヤバい育児写真を公開して、児童虐待の疑いで児童相談所に通報されて警察沙汰になる、という物件があったとして、普通にはあちゅうさんの書いているものを楽しみに待っている私たち読者からどうやって共感を引き出そうとするのでしょうか。読み手の頭に去来するのは「児童相談所に通報するのはやりすぎだ」ではなく「本人が『人生コンテンツ』というテーマで言論活動するのは勝手だけど、子どもは巻き込まないでやったほうがいい」という微妙な距離感です。昔であれば、「いいぞ、はあちゅう面白い。もっとやれ」だったのに、この感覚のズレは何でしょう。私が一足先に世帯持ちになってしまって、洒落が通じない「モテないおっさん」に堕してしまったからなのでしょうか。
結果として、はあちゅうさんが作家として本当に大成するかもしれない書き物の類は微妙な雰囲気になり、彼女の著述活動において切り札になるはずだった『旦那観察日記』は本人の精神的なストレスの問題もあって掲載中止になってしまうという、本末転倒な事態に陥ってしまいました。さらに本を売るためなのか、ところどころ炎上を仕掛けるネタがことごとくスベり、読者でありウォッチャーである私ですらはあちゅうさんの炎上に気づかない、という残念な事態になってしまっています。明らかに、炎上するための可燃部分が摩耗しているか、炎上させようにも時代が先に行ってしまってコレジャナイ感が出ているのかもしれません。
やっぱこう、一念発起して、いままではあちゅうさんが広い意味で誹謗中傷してきたいろんな属性の人たちや、はあちゅうさんを愛さなかった連中に対して行ってきたことを、きちんと謝罪して書き物に専念するのがいいんじゃないかと思うんですよ。はあちゅうさんが「アンチは訴える」と言っても、書かれた誹謗中傷や罵倒、侮辱もかなりの部分が受忍限度内にされてしまうかも知れず、要はいままで童貞いじりで名を売ってきた「お前が言うな」になる恐れもあります。
過去に刊行されたすべてのはあちゅう本を読み、またサイトでの記事も熟読しているモテなそうなおっさんである私に言わせれば、ニュートラルかつナチュラルに日常を語り、等身大のはあちゅうが書き下ろす、流れるような言葉遣いのエッセイが彼女本来のの一番の強みなんですよ。
例えば、『何者でもない夕方』。あくまで日常を生きる一人の女性のエッセイとしては、幸せに生きるための物足りなさを行間で埋めるような描写がうまく組み合わさっていて、ああ、そこをもっと掘れよと思うんですよ。このままでいいのか的な、一定の年齢になった女性の健全な焦りが染め上げていく生活のトーンがコントラストとして面白いのです。でも、一つひとつのエッセイの種は深堀されることはなく、どんどん過ぎ去る日常の中で色褪せて行って、読んでいるこっちが勝手に焦るという。
あるいは、『自分の強みを作る』。いまを生きるはあちゅうさんの原体験、思想の根底にある本です。なりたい自分になるために、きちんと自分の良さや誇れるものを見つけ出そうという、いわゆる「自分探し」的自己啓発の文脈でありながら、伊藤春香の生来の性格や過去の経験を埋め込んで読ませるという点では、部分部分で凄く光る表現があります。当時はディスカヴァー社(干場弓子さん)が若い人の読み手拡大のための尖兵として起用された記念すべき本なのですが、作家として、あるいは対になった編集者との間でテーマや書き口の詰め込みが甘くなってしまいました。本当はもっとはあちゅうさんの言葉を前に出せる貴重な機会だったと思うんですよ。結果としてもう一押しあって欲しい寸止め状態になり、非常に惜しい本でありました。
過去のはあちゅうさんの本をたまに読み返したりもし、今回も裁判すると言うので夜中についうっかり読み耽りましたけれども、はあちゅうさんはやはりチャンスを逃してきて、本当はもっと濃いエッセイや私小説を書ける人のはずなのでふ。しかし彼女なりに悩み、ずっともがいてきた挙句、最後にはなぜか「人生コンテンツ」というテーマにしがみつき、より刺激的なものを求めた結果がAV男優との事実婚と妊活や子育てブロガー方面へのシフトと挫折、そしてネット社会ウケのための誹謗中傷キラーとしての打ち出し―― ま、迷走しているわけですよ。
もちろん、そういう私はどうなのか、また、これを読んでおられる皆さんも、人生どういう未来を描くためにいまどんな努力をしているのか、振り返ると心に沈むものはあるかもしれません。はあちゅうさんのような他人の人生に口を挟める立場なのか、と。でも、そういう未来に対して抱く漠然とした不安や、子育て・教育や介護、仕事との両立、あるいはスキルやキャリア、転職に健康などなど、悩む日常を赤裸々に描き続けるだけで、本来ははあちゅうさんは立派に作家たりえた。多くの共感する人たちと共に、歳を重ねることもできた。そして、それだけの、書く実力もファンもいた。それがいつしか、ネット社会での炎上を通じて信者とアンチを集め、それをおカネに換える仕組みに邁進して、本を出すごとに「プロモーション代わり」とばかりにネットで炎上させるようなことばかりを言う。
その向かう先は「飽きられ」であり、それを避けるためにより過激に、さらに天高く黒煙が上がる炎上を求めるようになるものの、徐々に芸風は狭まり、過激ゆえに共感を得られなくなり、炎上そのものも話題にならなくなっていく、というスパイラルに陥っているのです。いつしか、内容の薄い本は量産できるけれど、だんだん露出の幅も狭まって、彼女の名前を見るのはTwitterやガールズちゃんねるでの誹謗中傷か、PVの取れてなさそうなウェブ連載か、スポーツ新聞の埋め草的な動静記事です。はあちゅうさんに求めているのは、彼女にしかできない文芸であり、表現のはずなのに。何故こうなってるのだろう。はあちゅうさんは、才能のある人なんですよ。
過激な人生を無理に演出することを読み手は求めているのではなく、普段のはあちゅうさんを淡々と書き綴るだけでも充分面白かったのに、と思うと、これを他山の石として、歳相応に、必要としてくれる読み手に向けて地に足をつけてモノを書いていこうと私などは思ってしまいます。
そして、こういう記事ははあちゅうさんは読まないでしょう。でも、彼女の発言に関心を持ち、ネットで反応する人たちがうまく翻訳して、彼女に伝えてくれることを期待してビールを飲むこととします。
ご清聴、ありがとうございました。
(追記 10:57) 読者よりご指摘があり、誤字や文脈で読みにくい部分につきまして修正、追記いたしました。ご指摘賜りましてありがとうございました。