「ドライブ・マイ・カー」と、 ワーニャ伯父さんとダーウィンの進化論
昨夏からロングランを続けている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」は、カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのに続き、アメリカでもアカデミー賞の評価に大きく影響を与えるといわれる賞を次々に受賞し、年が明けても劇場を大いに賑わしている。この映画を観て考えたことから話を始めよう。
映画「トニー滝谷」の示唆
この映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文春文庫)のなかの同名小説を原作にしていることは有名だ。当初はむしろ村上春樹の原作だと話題になったと記憶している。村上春樹の小説はこれまでにも、1981年に新進気鋭の大森一樹が監督した「風の歌を聴け」を皮切りに、2019年の『螢・納屋を焼く・その他の短編』(新潮文庫)に収録されている短編「納屋を焼く」を原作にした韓国映画「バーニング」まで数作が制作されている(この「納屋を焼く」はウィリアム・フォークナーの「Barn Burning」の翻訳タイトルそのままを拝借しており、面白いことに村上春樹の短編の英訳タイトルは「Barn Burning」となるがこれはまた別の話)。
ノーベル文学賞が期待される村上春樹だけに、リストには海外作品が複数含まれる。カンヌ映画祭でカメラドール(新人賞)を受賞したベトナム人監督であるトラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」は、国民的ベストセラーの映画化もあって2010年当時、話題をさらった。ちなみに、この原作『ノルウェイの森』(上下/講談社)は、先の短編集『螢・納屋を焼く・その他の短編』の「蛍」を下敷きにしている。
村上春樹の小説を原作につくられた映画のなかで私がひとつ選ぶとしたら、2005年に公開された市川準監督の「トニー滝谷」である。イッセー尾形を主人公に宮沢りえをヒロインに迎えた不可思議でありながら洗練されたこの映画は非常に印象深いだけでなく、当時の私はある示唆を得た。
なぜ「トニー滝谷」にある種の示唆を感じたのかといえば、映画に用いられた話法に理由がある。ナレーションを多用しながら登場人物の内的モノローグを台詞として発話させ朗読劇のように進行させつつ、場面転換もあたかも本のページを捲るように左から右へパン移動で行うという独特の話法は、その頃もりあがりをみせていた電子書籍のことを考えさせた。電子化によって紙の本は終わると実しやかに論じられ、編集者である私は強い関心をもって書籍のあり方、あるいは電子化の意味を考えていた。そんなときに観たのが「トニー滝谷」で、単純な電子化の先にテクノロジーによる小説のイノベーションを見た気がしたのだ。大袈裟にいえば、この映画が小説など活字表現の未来の方向を示しているように感じたのだ。
市川準がこの映画に村上春樹作品の文体を映像に置き換えるために採用した、それまでにない話法によって、観客は読書体験と映像体験がどこかしらで混ざり合うような体験をする。小説が本という紙の束のなかで起きるドラマであるように、この映画はミニマムな世界のなかに生起する。わたしは「ああ、小説が進化するとこうなるだろうなあ。電子化が進むと、読書体験はこのようになるのだろうなあ」と直感して周囲の人にもそう語った。
それから十数年経ったが、実際には書籍にそのような変化はない。しかし、漫画などの電子化においてはある種、映像体験にちかいUI(ユーザーインターフェイス)が用いられるようになっている点を捉えれば、小説の電子化の方向のなかに、あるいは電子化された小説のUIの進化にまだまだ大きな可能性が残っていると言っても過言ではないはずだ。
ところで、「トニー滝谷」のナレーションをつとめたのは「ドライブ・マイ・カー」の主人公・家福を演じた西島秀俊だったことも付記しておこう。
「ドライブ・マイ・カー」をめぐるデタッチメントとコミットメント
映画「ドライブ・マイ・カー」の監督である濱口竜介(および脚本の大江崇允)は、市川準とは違うアプローチで村上春樹作品に対峙している。彼らが目指したのは村上春樹の小説世界の再現ではなく、人間ドラマとしての換骨奪胎であり再構成だったようだ。その意味では、非常に映画らしい映画である。
原作では俳優であった家福は映画では演出家であり、女優だった妻も脚本家に変えられている。そうした脚色のうえに、オリジナルであるウェルメイドな伏線を散りばめて回収しながら人生の恢復を描く。村上春樹の原作ではここまで正面から欠損の恢復に向き合うことはほとんどない。それが短編小説であればなおさら、かつての代名詞でもあったデタッチメントの姿勢が如実に現れる。
もちろん評論家の加藤典洋が『村上春樹の短編を英語で読む』(上下/ちくま学芸文庫)で述べたように「デタッチメント」から「コミットメント」という村上春樹の創作姿勢の移行は明らかなものと考えられる。ただ、短編小説「ドライブ・マイ・カー」についてはデタッチメントの創作姿勢が貫かれていると言っていいだろう。
原作のほうの「ドライブ・マイ・カー」にあるデタッチメントは、映画「ドライブ・マイ・カー」ではコミットメントに置き換えられる。どこか自身の運命に距離のある小説の家福も渡利みさきも、映画のなかでは運命の被害者といった自意識が強く表れている。映画化において「ドライブ・マイ・カー」は、デタッチメントからコミットメントへ移行していると言ってもいいだろう。
そういう点で、私は個人的にこの映画作家の話法にはやや違和感があった。どこか洗練されない、生硬な印象を受けたのだ。オルガスムによって物語る脚本家の妻は、同じ短編集にある「シェエラザード」の主婦をもとにしているのだが、小説にあった浮遊感が取り繕ったようなリアルの生臭さを発してしまっているのだ。これはリアルな人間へコミットメントしようとしたことによるものだろう。渡利みさきに与えられた詳細な思い出話などもふくめそういうシーンがいくつかあって、個人的にはやや入り込めない部分であった。
「トニー滝谷」もまた「ドライブ・マイ・カー」と同じく妻を喪失する物語だった。しかし映画「トニー滝谷」で、イッセー尾形が演じる主人公のイラストレーターは結局のところ、妻の喪失あるいは妻の(洋服を買いまくるというショッピング依存の)謎には向き合わない。コミットメントしようという葛藤もない。そこには悟りきれないだけの諦念があり、悲壮ではなく疲労がある。
「ワーニャ伯父さん」とのモンタージュ
ここまで批判的に論じた私が、しかし3時間を超える長尺映画の最中に何度も我に返りつつも、それ以上にのめり込み滂沱と涙を零さずにいられない映画、それが「ドライブ・マイ・カー」である。
どうしてだろうか。それもやはり濱口竜介という映画作家の話法にある。コミットメントという創作姿勢がもたらしたものだ。市川準の「トニー滝谷」では、原作小説と同様に貫かれたデタッチメントによってもたらされた映像としての魅力は、濱口竜介の「ドライブ・マイ・カー」ではコミットメントによってもたらされる。登場人物たちは互いに深く関わろうとし相手を知ろうと欲求する。それを体現する登場人物は高瀬であろうが、ここでは深くは言及しない。家福と高瀬は互いの自意識を向かい合わせてしまうとだけ述べておく。
映画「ドライブ・マイ・カー」でもっともコミットメントの姿勢を色濃くするのはアントン・チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」(『かもめ・ワーニャ伯父さん』神西清訳/新潮文庫)の取り扱いにある。原作短編ではわずかに大正時代の初翻訳「ヴァーニャ伯父さん」を家福が演じるために車中で台詞を覚えるといったモチーフ程度の取り扱いが、映画では登場人物たちの心情をトレースする大きな受け皿として重要なサブストーリーを形成している。もっと言えば、「ドライブ・マイ・カー」と「ワーニャ伯父さん」は、エイゼンシュテインのモンタージュのようにひとつの意味を浮かび上がらせる関係にある。
ワーニャは家福、ソーニャは渡利の写し絵であり、映画のなかの劇中劇で演じられるシーンは登場人物たちの時々の心情と二重写しになる。この世界的戯曲を映画に有機的に取り込んだ脚本は出色の出来であるし、ふつうの監督なら興醒めを誘うだけの劇中劇、その演技が当たり前に素晴らしいというのは演出の力量を否でも応でも感じさせるものだ。そのうえ、こういう作劇を行う場合、映画内の役、劇中劇の役を重ねることで深みを持たせようとして重く暗くしてしまいがちな人物造形が、重ね塗りではなく点描のように色を集めて色彩に深みをだすといった演出でこなされており、ラストシーンの爽やかさは人生の恢復を祝福する。こうしたことができる映画監督は世界的にも決して多くはないはずだ。
なんといっても、上演が決まった「ワーニャ伯父さん」のオーディションのシーンで演じられた手話によるソーニャは主人公・家福の内情を静かにそして真に暴くような迫力があった。演じた韓国人女優の演技力の高さ、このシーンにこの台詞を組み込んだ脚本、そしてそれを捉えきった演出、すべてが高度に融合している。私はすでにここで涙が流れた。
適者生存という呪い
現代を生きる私たちの多くがワーニャのような不幸を感じている。誰にも認められない、評価されないという焦りから周囲に当たり散らす。ストレス社会の人物そのものだ。ワーニャは選ばなかった人生を悔やみ呪う。「もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエーフスキイにも、なれたかもしれないんだ」と。
「ドライブ・マイ・カー」の家福は多言語演劇の演出法のように感情を殺し淡々と意見するだけで癇癪もちではないが、トラウマと不安によって失ったものを諦めきれない。人生を悔やみ呪っている。
私たちはいつも何かを失っていると感じている。そして人生を悔やみ呪う。時代を経るごとに変化は加速しており、変化に応じるには選択肢を捨てるしかない。そのくせ、教育や人生訓は「変化しろ」「選択肢を多く持て」と言う。
今でも多くの経営者やビジネスリーダーがチャールズ・ダーウィンを引用して「強い者、賢い者が生き残るのではない。変化できる者が生き残るのだ。」と言う。しかし、このあまりにも有名なダーウィンの言葉がダーウィンのものではなかったことは知られていない。引用元に当然の如く名のあがる『種の起源』(上下/渡辺政隆訳/光文社古典新訳文庫)にはこういう記述はないのだ。これを不思議に思った科学史家が調べたところ、これは1960年代にあるアメリカの経営者が進化論を独自に解釈して述べた言葉がいつからかダーウィンのものとされたらしい。
この「変化できる者が生き残る」という言葉の呪縛は凄まじいものがある。現代のほとんどのビジネスパーソンが呪いにかかったように自分に変化を求めるようになっている。あたかもそれが自然科学の法則に合致するものかであるように。
戯曲「ワーニャ伯父さん」の時代も帝政ロシアの終焉期であり、登場人物たちはみな変化を求められている。いや、チェーホフの四大戯曲(「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「桜の園」「三人姉妹」)のすべてが時代の変化と、それに気づかない人あるいは取り残されようとしている人を描いている。
「ワーニャ伯父さん」にも象徴的なシーンがある。モスクワのある学者がかつての自分の論を、まったく変節してしまったことをワーニャの老いた母が嘆き、息子に愚痴る場面があるが、あれこそ変化に取り残された、自身は変化できない人そのものであった。
変化できる者は如才なく生き、変化できない者は時代に流されるしかない。私は思う。どちらの人生のほうがより価値があるかなぞ誰にも言ってほしくない、と。
変えられない時代と人生
チャールズ・ダーウィンは莫大な遺産のおかげで生活に苦労なく研究を続けられたことは有名だが、若い頃からずっと持病に悩まされていたことはあまり知られていない。それはひどい腹痛をともなうもので、吐血することさえあった。ダーウィンはあまりの苦しさに自らの生を呪い、早く死ぬことを望んでいたという。『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ/水谷淳訳/河出書房新社)では、晩年のダーウィンの生活ぶりが描かれている。ダーウィンは晩年の書簡に「とてもうんざりする人生だった」と書き残している。
ダーウィン自身は決して変えることのできない病に一生涯、苦しみつづけたのだ。晩年、痛みはやや薄らいだというが、その恢復は死ぬまでもたらされなかった。一説にはピロリ菌に由来する病気だったようだ。
もう一度、問いたい。変わることは本当に重要だろうか? 選択肢を多くもつことは本当に必要だろうか?
ダーウィンの名言が間違いだとすれば、この呪いはいつ解かれるのだろう。家福や渡利のように私たちの人生は恢復しうるのか、それともワーニャやソーニャのそれのように土地や労働に縛られて変わることが許されないのだろうか。
そんなことを考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?