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AI、情報科学、そして「ユートピア」への緩慢な歩み? ノーベル賞とテクノロジーの経済を巡る省察

10月初旬、今年もノーベル賞の発表があった。改めていうこともないほど話題になったが、物理学賞にジェフリー・ヒントン、化学賞にデミス・ハサビスといったようにAI研究者が名を連ねAI時代を印象づけるものとなった。

ヒントンとハサビス、グーグルの二人

このレビューでも過去、何度もとりあげてきた二人、ジェフリー・ヒントンとデミス・ハサビスはグーグルで一時期をともにした。
「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的な発見と発明」という受賞理由で物理学賞を受けたジェフリー・ヒントンは、トロント大学に在籍して画像認識分野で画期的な業績を残した。2012年に画像認識コンテスト「ILSVRC」で2位以下を圧倒する精度を示し優勝し注目され、みずからが創業したスタートアップ企業「DNNresearch Inc.」が買収されたことでグーグルに入社した。
ヒントンに関しては入社以上に話題をさらったのは、その退社であった。というのもヒントンはAIの脅威を公平に十分に論じるためにグーグルを去ったと述べたからである。それが2023年のことだ。
一方のデミス・ハサビスは、2016年の囲碁AI「アルファ碁」によるトッププロ棋士、イ・セドルに対する勝利によって一気に名を馳せた。数十年はAIが人間に勝つことはないと言われていた囲碁でのAIの勝利は衝撃的で、それが第3次AIブームをもたらしたとされる。
この対局の2年前、「アルファ碁」を開発したハサビスのディープマインド社もグーグルに買収され、ハサビスもグーグル入りを果たす。
わたしは「#33ヒューマニズムはテクノロジーを語れるか?」(2023年5月26日)で、驚きをもってヒントンのグーグル退社を論じた。それまでどちらかといえば楽観的であった──AIが人類を滅ぼすより先に、他の原因で人類は滅びる(それほど未来のこと)──ヒントンが、グーグルに在籍したままでは語れないほどの脅威とは何かを考えた。ヒントンはそのタイミングではAGI(人工汎用知能)誕生の脅威を論じたのではなく、より現実的なリスクとしてAIによってフェイクニュースが生成され、それをデマゴーグが利用して社会に混乱をもたらすのではないかといった内容を危惧していた。
ハサビスはヒントンに比してよりAIの可能性を信じており、ヒントンも「ハサビスとは違う未来を見ている」と『人工知能のアーキテクトたち —AIを築き上げた人々が語るその真実』(マーティン・フォード著/松尾豊監修/水原文訳/オライリージャパン)のなかのインタビューで述べていた。

ノーベル物理学賞の選考の疑問

今年のノーベル賞についてはさまざまな論点で語ることが可能だ。もちろん、ノーベル賞ともなればつねにさまざまな論点で語ることはできるのだが、この記事でふれておきたい論点が今年については多くあるのだ。
ジェフリー・ヒントンがジョン・ホップフィールドとともにニューラルネットワークの基礎理論を確立してディープラーニングの発展に貢献したとしてノーベル物理学賞を受賞したとの一報が入ったとき、多くの人がまっさきに思ったのが、これは物理学なのだろうかということだ。過去にもトランジスタを発明したウィリアム・ショックレーや、青色発光ダイオードを発明した名古屋大学の赤﨑勇、天野浩の両氏と中村修二氏といった、工学的なテクノロジーの功績に対してノーベル物理学賞が与えられているが、トランジスタも青色発光ダイオードも量子力学をもとにしており明確に物理学領域の功績であることに間違いはない。
それに対し、ジョン・ホップフィールドが物理学者であるのは言を俟たないとしても、ジェフリー・ヒントンについては情報科学者とするのがふつうである。わたしなどは、この点にノーベル財団の政治性を感じてしまう。それは、ヒントンがグーグルを辞めAIの脅威を口にしたことが、これまでのリベラルな傾向にも合致するように思うからだ。
翌日に化学賞を受賞したハサビスに関しては、グーグル在籍であってもAIモデル「アルファフォールド2」によってタンパク質の構造を予測するという、人類の公共福祉に大きな貢献のある内容だった点でいえば、ノーベル化学賞に違和感はない。
さて、ヒントンとホップフィールドの受賞発表があった10月8日から、1週間後、こんなニュース記事がでた。
「本来なら日本の甘利俊一・福島邦彦両氏が受賞すべき今年のノーベル物理学賞」(JBpress 2024.10.14)だ。
この記事では、2024年のノーベル物理学賞の選考に疑問を投げかけ、日本の甘利俊一氏と福島邦彦氏の貢献が適切に評価されなかったことを批判する。特に、彼らの研究がディープラーニングやニューラルネットワークの基礎を築いたにもかかわらず、カナダとアメリカの研究者であるヒントンとホップフィールドが受賞した点を疑問視し、日本の研究者が果たした役割への再評価が必要だと論じている。
このお二人のニューラルネットワーク、ディープラーニングへの業績は以前から言われてきたし、わたしもハードウェアの進化を語る際には、基礎理論となるコンセプトははるか以前に確立しながらコンピューティングパワーが不足してAIの進化には時間を要したと書くことが多い。基礎理論となるコンセプトとはつまり、数理工学者・甘利俊一氏のニューラルネットワーク理論と情報幾何学であり、計算機科学者・福島邦彦氏の深層畳み込みニューラル・ネットワーク(CNN)の原型である「ネオコグニトロン」である。
甘利氏が1967年に発表した多層パーセプトロンの確率的勾配降下法の定式化などは、1986年、ヒントンらが編みだした誤差逆伝播法と密接な関係がある。
わたしが「コンピューティングパワーが不足」というのはどちらかといえば、この1980年代後期の誤差逆伝播法からディープラーニングへの進化の過程に挟まっている長い冬の時代の原因としてであるが、その根本にはそれよりさらに20年も遡る甘利氏の発見があったのだ。もしこのときに十分に計算力(コンピューティングパワー)があれば、ヒントンの登場もなく冬の時代を経ることもなくAIは現在の状態に近いものになっていたかもしれない。
これは推測でしかないが、今回のノーベル物理学賞の受賞者の決定に際しては、選考のなかで甘利氏、福島氏の名は挙がったはずだ。そして、この二人であればAIの進化に貢献した物理学的な領域での貢献としても、さほど違和感がなかったのではないだろうか。

タダ乗りは誰か?

甘利俊一氏と福島邦彦氏の基礎となる理論研究について、昨今の半導体をめぐる経済安全保障、地政学の論点からも考えるべき点がある。
前々回の記事「#48 ソフトウェアからハードウェアへ IT技術25年周期説で占う未来」でもふれておいたように、1990年以降は日本経済にとって衰退の途であり、世界のトップから落伍していく歴史であった。それはちょうど半導体製造の世界シェアを失っていく歴史でもある。
この衰退は、1985年のプラザ合意からはじまったとされる。主要5カ国(アメリカ、日本、西ドイツ、フランス、イギリス)による、ドル高是正によって各国間の貿易不均衡を緩和する目的で決定された為替政策だ。これによってもたらされた円高で、日本の製造業は大打撃をうけた。半導体産業も競争力を削がれる。プラザ合意の翌年1986年には日米半導体協定を結ばされ、理不尽な輸出規制と市場開放(によるアメリカ製品の輸入拡大)が進んだ。
結果、それが日本の「電子立国」時代が衰退に向かう一因となったのだが、この時期にアメリカ側から繰り返された日本の産業批判は「基礎科学研究への貢献が少なく、応用技術に依存して利益を上げている」というものであった。アメリカからは「日本企業はイノベーションの原点である基礎研究への投資を避け、欧米が生み出した知識を活用して利益を上げている」というタダ乗り論が噴出した。
日本側にも、欧米企業からの技術移転やライセンス契約を通じて、高度な技術を吸収し製品改良(カイゼン)を通じて競争力のある品質によって、アメリカの半導体産業から市場を奪っているという意識もあった。これも以前書いたことだが、明治維新後の日本は政策として基礎科学より工学に関心をよせ“富国強兵”を図った歴史がある。世界に先駆けて総合大学である東京帝国大学に工学部を開設したのも、日本政府の意向があってのことだ。
そういう歴史を背負ってきた日本人は、1980年代当時のアメリカからの批判を真面目に受けとったのだ。後ろめたいところがあった。
こうした批判に応えるかたちで日本政府は1990年代以降、基礎科学研究への投資を強化していく。いまもつづく科学技術基本計画が始まったのは1996年である。ノーベル賞にからめていえば、この成果が2000年代以降、日本人のノーベル賞受賞の増加だと言われている。
2000年以降の自然科学分野での日本のノーベル賞受賞者は、全体の80%(物理学賞:全8名中6名、化学賞:全8名中7名、生理学・医学賞:全5名中4名)を占めていることからも、科学技術基本計画という政策の意義は小さくないかもしれない。とはいえ、世界主要国の科学技術活動を体系的に分析した「科学技術指標」における論文数では、ずるずると順位を下げており、現在では基礎科学の発展は感じられなくなりつつある。
さらには、半導体のグローバル市場ですっかり存在感を失った現在、さかんに言われているのは、応用科学の重要性、工学的な発展の再評価である。それは、日本の半導体産業の衰退するなかで登場した台湾、韓国のファンドリーの存在感が増していることによるだろう。何人かの論者は、いたずらに最先端技術を追うのはなくすでに古くなった技術でも十分に経済的な効果をもたらす分野に力を入れ国力を高めるべきだという。
こうした議論は、タダ乗り論のころにはなかった。そんな2024年、もっとも先端的な科学分野の基礎の基礎となる理論を半世紀も前に発表していた甘利俊一氏と福島邦彦氏の功績が、ノーベル賞から無視されたかのように扱われたのはひどい皮肉に感じてしまう。
同じ論理が許されるなら、ヒントンの功績の一部は甘利俊一氏と福島邦彦氏の功績への“タダ乗り”と言えてしまうではないか。
この基礎理論でもっとも利益を得た者は誰だろう。
わたしたち日本人はいったい何に振りまわされているのだろうか。

不可避な進化を認めたがらない政治家

ノーベル賞が日々発表されるなかで、個人的に面白いエピソードを耳にした。これ以降の論旨にも関係してくるので紹介したい。
それは、とある県の知事候補者が開いた片田舎でのタウンミーティングでの話だ。その場に出席していた人から聞いた話である。
そのタウンミーティングに参加していた初老の男性が、AIの時代について質問をしたそうだ。内容は詳しく聞かなかったが、その脅威についてだ。知事候補は次のように答え、質問者を喜ばせたという。
「アルファ碁という囲碁のAIは開発するのに原発1つ分の電力を消費した。大きな社会問題だ」と。
先に述べたハサビスのディープマインド社のアルファ碁はAI同士で対局することで膨大な時間を学習に費やした。この際に消費した電力のことを言いたかったようだが、とんでもない誤解と誇張があるのはいうまでもない。学習時のピーク電力は600kW前後と見積もられており、これは一般家庭に換算すると約150世帯分の電力消費に相当するとはいえ、原子炉の出力には遠く及ばない。
伝聞で聞き間違いがあったのかもしれないので、わたしのほうで訂正してみる。現在いわれているのは、近い将来の世界のAI需要を満たすデータセンターの総電力における消費量の割合(約10%予想)が、世界の原発の電力供給量(2023年時点で9.2%)に匹敵するという考えをもとにしているのではないだろうか。
もしかしたら知事候補はこの話をしたのかもしれない。たしかに、アメリカの大統領選でもAIの利用による電力消費が大きな問題になっているのは確かだし、無視できる問題でないのもじゅうぶんに理解している。
そのうえで、わたしが思うのは、AIを一方的な悪とするような論調は知事を目指す政治家がしていい話とは思えない。そもそも、ハサビスのノーベル化学賞受賞が示すように、AIによって救われる人類というものがあるのだ。タンパク質の構造予測による医療の進化で救われる人の数と電力消費とを比較するような短絡があっていいわけがないし、老人有権者が好みそうなAI脅威論にこれまた害悪論が根強い原発を絡めれば、なんとも安易な文脈ができあがるだけだ。原発にしたって、EVの普及やらAIによる電力需要の増加によって求められるカーボンニュートラルな発電方法でもあるのだ。対立軸を色分けするだけの議論はほんとうに未来がない。
さらに加えておけば、AIの普及で消費される電力とはつまりGPUをはじめとする半導体が消費するものであり、半導体の発熱を冷却するためのものである。こうした課題も、半導体の回路線幅の微細化や立体化(チップレット)することで消費電力を減少させる取り組みは進んでいるし、光電融合などの次世代技術に大きな期待がよせられるのも高性能化とともに低消費電力化が挙げられているのだ。こうした点を欠いて、AI普及と電力の関係を結論づけるのをわたしは短絡だと言いたい。
そのうえで述べておけば、ニュースをみるまでもなく、日本の経済復興、経済安全保障を担っているのはAI、半導体といったテクノロジーだし、現在、第6期(2021年〜2025年)を迎えている科学技術基本計画の目標は脱炭素社会の実現であり、カーボンニュートラル技術の開発にくわえ、AI、量子技術、バイオテクノロジーへの投資も政策の重点となっている。
この知事候補が、もし本当にポピュリズムに堕ちてAIや半導体の分野を忌避して日本社会が成り立つようにしたいのであれば、そうとうの政治力と経済力が問われる。そんなことが可能なのだろうか。
100年単位の構想としては理解もするし賛成もできるかもしれないが、次の知事選の争点にするなら、愚かとしか言いようがない。

発明を生む仕組みの発明

今年のノーベル賞でもうひとつ、論じておきたいことがある。それは、先に述べたようにヒントン、ハサビスの両氏がグーグルというビッグテックに関与しており、さらにはみずからも起業したビジネスパーソンであることだ。
過去のノーベル賞を振り返っても、自然科学分野で、民間企業勤務のビジネスパーソンが受賞した例は決して多くはない。1956年にノーベル物理学賞をトランジスタの開発で受賞したウィリアム・ショックレーらはベル研究所(ベル・システム社)の職員だったし、日本でも島津製作所の田中耕一氏が2002年のノーベル化学賞を受賞したり、青色発光ダイオードを発明したとき中村修二氏が日亜化学工業の開発部主幹研究員だったりしたという事例は記憶に残っている。
ここまで触れてきたように、自然科学の発達は国家の主導によるもの、政策によって牽引されてきたものが多い。20世紀の自然科学の研究には莫大な費用がかかり、民間企業で担えるものではなかったからだ。
「国民的革新システム(National Innovation System, NIS)」という考えがある。イノベーションや科学研究が国家の経済的発展や競争力にどのように寄与するかを説明するための概念である。20世紀後半以降、各国の科学技術政策や経済戦略が大きく変化するなかで、この概念は重要な理論的枠組みとなっていった。
アメリカなどでは軍産複合体がイノベーションを牽引し、やがて経済的に大きな意味をもっていくテクノロジーの多くを生んでいる。たとえば、インターネットの生みの親となったDARPA(国防高等研究計画局)ネットのような事例は数多い。
この近現代の1870年から2010年の約140年間を、経済を軸にした「長い20世紀」として画し、経済がいかに近代を形作ってきたかを俯瞰したのが、カリフォルニア大学バークレー校の経済学教授、ブラッドフォード・デロングによる『20世紀経済史 ユートピアへの緩慢な歩み』上下(村井章子訳/日経BP)だ。
長い20世紀といえば、これまた前々回にとりあげたイタリアの歴史社会学社のジョバンニ・アリギが提唱したものもあるが、こちらは世界システム論(イマニュエル・ウォーラステイン)に則って資本主義の発展を15世紀から20世紀後半の「歴史的なサイクル」として分析しており、経済を武器とした覇権国家の変遷を見るのに対し、デロングのそれは経済思想の変遷を追ううえで設けられたコンセプトである。
デロングの長い20世紀とはつまり以下のように始まった経済社会のことだ。だいぶ長いのだが大事なところなどでためらわず引用しておく。

一八七◯年を境に変わったのは、当時先頭を歩んでいた北大西洋諸国が発明を生むしくみを発明したことである。彼らは単に自動織機や鉄道を発明しただけでなく、産業研究所と近代的な企業を発明し、それが大規模な企業の出現につながる。その後は、産業研究所で発明されたものが国家規模さらには大陸規模で活用されるようになった。おそらく何より重要なのは、古いものを改良する発明にとどまらずまったく新しいものを発明すれば、途方ない利益が上がり多くのニーズを満足させられるとこれらの国々が気づいたことだろう。
そう、単発的な発明ではなかった。組織的な発明の方法が発明されたのである。大規模な企業が単発的に出現したのではなかった。近代的な組織化の方法が発明された。この二つは、近代的企業における中央集権的指揮統制機能の出現にとって欠かせない要素だったと言えよう。一八七◯〜一九一四年の期間には、どの年をとっても初代の産業研究所群からより新しくより優れた工業技術が誕生し、それが実用化された。ときには既存の製造事業者に売り渡されることもあったが、それよりも一つひとつの技術が大きな企業組織の創設や拡大につながることのほうが多かった。

『20世紀経済史 ユートピアへの緩慢な歩み』上

国家と企業が技術発明をもとにしてより大規模に組織化していく過程は、まさに日米の貿易摩擦の原因にあたるものだろう。欧米諸国を追走する東アジア各国がここ数年までつづけてきていることでもある。キャッチアップする側の国家ほどむしろ組織化には強い力が働くし、より過激に行われる。自然科学の客観性、絶対性にもとづいて新しい技術が生まれ、経済合理性を追求して組織化が進行するというふうにいえるだろう。
デロングのいう長い20世紀において、もっとも重要な分野のひとつが物理学であった。相対性理論が時間と空間への認識を変え、量子革命を通じて半導体といったテクノロジーを次々と生み、原子力爆弾(あるいは発電)という国家の組織化なくしては生まれ得なかった技術を産み落とした。
デロングは長い20世紀を、2010年をもって区切っている。リーマンショックを契機とした世界金融危機をひとつの終焉として、“ユートピア”への次の歩みが始まったとしている。
偶然なのか、なんらかの相関があるのかはわからないが、未来に語られる歴史を想像するに、2010年代はおそらくAI時代の始まりとされることだろう。
それは、物理学と同等以上にAIが重要性をもった時代の始まりだ。いや、今回のノーベル賞をみればAI、情報科学の領域はあまりにも広い。物理学が宇宙までをその領域に収めているとすれば、AI、情報科学は人間、生命そのものをその領域にふくんでしまうだろう。
AI、情報科学の時代は、物理学の時代に覇権を握っていた国家に変わって、企業が存在感を増している。グローバルサプライチェーンによって国境をある程度、無化して、企業が国家をコントロールしうる組織となる部分が目立つようになっている。
ヒントンやハサビスの出身国より、所属していたグーグルが話題になるのはその表れのように思える。

AIや情報科学の常識が社会の常識になる時代

近代を通じて自然科学の常識が社会科学の常識になっていった。自然科学が行なった知識の体系化、科学的方法論を適用することで社会科学は発展したのだ。自然科学の観察と実験は社会科学の観察と統計に置き換わった。
AI、情報科学の発展はこの傾向をさらに強化して進行している。もっと言えば、AIや情報科学の常識が社会の常識になる時代はすでに始まっているのかもしれない。
AIや情報科学の方法論が社会に浸透することで、自然科学から社会科学への知識の移行がさらに加速していると言っていいのではないか。
ノーベル化学賞を情報科学者が受賞したことは端的に理解しやすい。経済学賞においても、AIを活用した研究者──たとえば因果推論のような──が近い将来に受賞者になるという想像は難しくない。
そのうえで、今回、物理学賞に情報科学者が輝いたことは、客観性と真実性の頂点にあった物理学の座を情報科学がとってかわりうるという未来を感じさせるものだった。
データ主導の意思決定やアルゴリズムの利用が拡大する現代社会において、単なる理論の域を超え、AIや情報科学が社会常識として定着する可能性がある。こうした時代にはテクノロジーの透明性や倫理的な側面にも注意が求められる。
デロングの著作のサブタイトルは「ユートピアへの緩慢な歩み」である。デロングは長い20世紀を通じて、人々は社会的平等、経済的繁栄、そして安定した社会制度の実現を目指し、技術革新と試行錯誤を繰り返して進んできた。
より自由な市場経済を発展させながら、福祉制度を通じて社会的安定を図ってきた。デロングはその一時的な実現を第二次世界大戦後の世界にみて、「ハイエクとポランニーの結婚」という言い方をしている。
自由市場の自己調整機能を強調し政府の干渉を最小限にするべきだとする新自由主義の代表的な思想家であるフリードリヒ・ハイエクと、市場の自由化が社会の不安定を引き起こすと指摘し、市場経済の登場が自然ではなく政治的決定によるものだと論じたカール・ポランニー。それぞれが目指したユートピアが妥協的に合体していた時代ということだ。
この時代は、トマ・ピケティが指摘する経済成長率 (g)が資本収益率 (r)をうわまわって経済格差が縮小した稀有な時代とも一致する。給与や福祉を通じて社会各員への富の再分配が促進されて、土地や株といった資本からの収益に富が集中しなかったということだ。
ナチスを経験したハイエクにとって市場の管理や計画を国家が行うことは非常に危険なことであった。ゆえに社会主義の計画経済は許されない。
一方のポランニーは本来商品であるべきではない、「擬制商品(fictitious commodities)」として労働と土地と貨幣を挙げ、これらが市場で取引されることで人間が人間性を失うと危惧した。市場経済は不自然な状態なもので、国家は市場の拡大をコントロールすべきだと論じる。ゆえに、社会主義の計画経済を擁護した。もちろん、ポランニーとてナチス的な国家社会主義まで擁護したわけではない。経済思想家の若森みどりは『カール・ポランニーの経済入門 ポスト新自由主義時代の思想』(平凡社新書)で、ポランニーのスタンスをこう概観する。

ポランニーは、世界経済と国際政治を破壊し自由と平和を台無しにするような困難の原因をすべて〈反自由主義〉(それは共同体主義、保護主義、社会主義、共産主義などに分類される)に結びつける見解を拒否し、ファシズム的な状況を生み出したメカニズムやシステムを考察したのである。

『カール・ポランニーの経済入門 ポスト新自由主義時代の思想』

現在、ハイエク的な自由主義はテクノリバタリアンのような極端な自由への希求へ発展している。彼らは、すでに国際政治さえ左右しうる企業を組織し、国家規模を凌駕する産業研究所を有している。
デロングのいうユートピアはこの先に実現するだろうか。たとえばサム・アルトマンが目指すユニバーサル・ベーシックインカムは富の配分を新しい時代に合うように実現するだろうか。
若森みどりは同書で自由主義者のいう自己調整的市場は画に描いた「ユートピア」にすぎないといい、経済的自由主義がもたらすのは欲望にまみれたディストピアだと論じている。

カール・ポランニーが早くからみていたように、労働と土地と貨幣は現在ますます市場化を極めている。労働生産は経済合理性でのみ測られ、土地と貨幣は投機の対象として金融商品の頂点にある。そうした状況はAIや情報科学によってさらに加速しながら、社会の中枢に組み込まれていっている。
議論は思わず遠くまで来てしまった。国家的な一大プロジェクトであった産業研究および開発がいまやグローバル・ビックテックの手にわたってしまった。
AIの進化があらゆるものを市場化していく時代において、わたしたちが目指す未来とは果たしてユートピアなのだろうか。ディストピアなのだろうか。
テクノロジーは決して後戻りせず、イノベーションが古い価値を破壊して登場するのだとしたら、わたしたちは前を向くしかない。これからくる未来を考えつづけ、そこに潜む問題を予期して対処していくほかない。現在のなかに未来を読みとるしかない。過去のなかに教訓を見つけるしかない。

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