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健康な自己愛と不健康な自己愛について~自己愛を火のイメージで考えてみる~

「あの人は自己愛的だ」

この言葉は、自己中心的だといった意味が込められて使われる場合が多いと思われます。

自己愛性パーソナリティー障害という疾患もあり、それを念頭に置いたような不健康な自己愛のことを指す使われ方をすることも、最近多いように見受けられます。

一方で、

「自己愛を満たす」

など、自己愛を健康な意味で使うこともあります。

「自分のことを好きと思える」、「自分のために頑張れる」こういった感情は、生きていくために大切な自己愛と言えそうです。

その気持ちがなければ、前向きに物事に取り組み続けることは不可能だとも言えそうです。

どうやら、自己愛といっても、健康な自己愛と不健康な自己愛があるようです。

それってどう違うんだろう。

こういう疑問が生じます。

このことを考えるときに、自己愛を「火」のイメージで考えてみると、一つの整理が出来るように思いました。

では、「火」ってどんな物質でしょうか。

調べてみても、「火」自体には化学式はないようです。

酸素O2が水素H2や炭素Cと激しく反応して、熱や光が出るエネルギー状態のことを火と言うようです。

自己愛というのも、火と同じく、何か固定の、定まった物質ではなく、人と人の反応で生じるこころの熱量や光といったエネルギー状態と考えてみます。

反応の結果としてのエネルギー状態です。

なぜ人間同士の交流でそのエネルギー状態になるのか。なんのためにそれがあるのかについてははっきりとしたことは分かりません。

酸素が水素と炭素と反応するように、人と人の交流で反応し発生する脳のシナプス間の電気信号の在り方なのだと思います。
(不勉強のため知識不足です)

自己愛があることで、人はこころを正常に保って生きていけるから、存在するエネルギーなのでしょう。(平たく一般的な言葉で言えば、自分が愛されているという実感とか、自分が世界に受け入れられている感じとか、そういう感覚に近いのでしょう。)

火は、例えば、私たちを暖める暖炉に使われます。

料理で肉や魚を加熱して食べることのできる状態にするために使われます。

このような、人が満足できる使われ方をしているときに、火というエネルギーは、「健全」「適切」「役に立つ」「ありがたい」と言えそうです。

自己愛も、人にとって役に立つ(生命を維持、活性化させる)現れ方をしていると「健康な自己愛」と言えそうです。

親が赤ちゃんをただただ「かわいいね」と抱くときの、2人の間に流れる満ち足りた、あたたかなエネルギー

自分の「〇〇への愛」を追求して、人類に役立つ発明をしたノーベル賞受賞者の研究活動という一途なエネルギー

一流のプロスポーツ選手のプレーが引き起こす人々を魅了するエネルギー

役者やアーティストや様々な集団のリーダーに見る情熱のエネルギー

これらは「健康な自己愛」の例でしょう。

より厳密に言うと、赤ちゃん、発明、スポーツ、観客などの「対象」と関わることで、満足が自分にも返ってきて、こころが満たされた相互交流がある。その交流の充足感のエネルギーが自己愛のエネルギーだと言えそうです。自己愛のエネルギーに2人、または2つ(あるいはそれ以上)が共に浸っていることが大事なのだと思います。それがかなわないとき、一人で自分を愛するしかなくなり、ナルシシズムという病的な状態に陥るのでしょう。

例えば、

火はそのまま触れるとやけどをします。

火は火災を引き起こすこともあります。

このような使用方法になると「不適切な」火の使用です。火は「危険な」「やっかいな」「こわい」存在になります。

赤ちゃんの手の付けられないむき出しの号泣のごとく、「私を愛せ」とだけ主張することで相手を傷つけ、相手が去ってしまいたくなるときのエネルギー

どんなに訴えても、訴えが届かずについに自傷行為に向かってしまうようなエネルギー

ダメな自分を過剰に責めて、相手から「あなたは悪くないよ」と安心の言葉を引き出そうとする「操作」により、相手をなんとも言えない重たい気分にさせるエネルギー。

このような場合は「不健康な自己愛」と言えるのではないでしょうか。

交流、反応の結果、対象(自分を含む)を傷つける形のむき出しのエネルギーの暴発になっています。交換になっていません。

つまり自己愛とは1.それ自体は、こころの熱量と光というエネルギー状態のことで、おそらく遺伝的に人間に備わっているもの。2.その発生にはどうやら他者などの自分以外の対象との交流が必要なよう。だから人は対象との交流を求める。

3.そして、その交流のされ方によって、上手な交換になる形で発生すれば健康な自己愛とみなせるし、交流が不適切だったり乏しいと、暴発する形で発生するので、不健康な自己愛とみなせると考えられます。

また、暖炉も、真夏に使用したら、人を熱さで苦しめるものとなります。

子どもに「かわいいかわいい」と毎日たくさん抱っこしても、子どもは却って親を重く感じるかもしれません。

ある時、上手に交換できた方法でも、時と場合と程度を選ばないと、破壊的に作用します。

つまり、その交流による交換や暴発は、流動的なもので、普遍的な固定的なものではないのだと思います。だから、健康な自己愛、不健康な自己愛といった固定的な状態にはなりえないのです。

言い方を変えれば、誰しも不健康な自己愛を暴発させる可能性もあるし、逆に、いままで不健康な暴発が多かった場合でも、健康な自己愛の交換も出来る可能性があると言えそうです。(ここが臨床的には非常に非常に難しいところだと思います)


私たち、こころの専門家は、いってみれば「こころの火の交換の仕方」の専門家と言えそうです。

自己愛エネルギーを、環境との兼ね合い、相手との兼ね合いで調節していく、適切な交換の仕方を見出す、そのための方策を整えるためのお手伝いをしています。(しかしまったくもって万能ではありません。非常に非常に難しいので、難しさを常に感じながら、日々がっかりしながらも、立ち向かっているという感じです。そのやる気だけで続いているような感じです。)

クライエントさんが、寒い冬に風前の灯になっているようなら、「あなたはよくできている。」「ここがすごくいいと思います。」などという支持を返す形での交換を行い、自己愛を燃え上がらせる方向に働きかけます。

クライエントさんのエネルギーが一方的で暴発気味で周囲がやけどを負いそうなら、一旦火を鉄の箱にいれ、隔離をするかもしれません(受診を提案など)。

少し格好をつけて言えば、こころの火の番人。のような役目を、プロカウンセラー(や精神科医など)は担っていると思います。
(格好つけて、読者の方に「いいね」をもらって、当室に相談に来ていただく。その満足感のエネルギーに浸る状態が格好つけた表現の目的です。)

番人は・・・千と千尋の神隠しに出てくる「釜じい」のイメージです。

ちょうどいい湯加減を調整するお役目です。


こころの火種は生きている限り誰にでもあります。

誰もがその人生を終えるまで「交換の失敗と成功」を続けながら生きていかなくてはなりません。

健康な自己愛に浸ったり、不健康な自己愛の暴発に出くわしたり、無数の自己愛エネルギーに触れながら生きていかざるを得ません。

その事実から目を背けると、知らず知らずに、孤立し、不健康な自己愛が目立つことにつながっていくのだと思います。

火の独りよがりの使用は、火事のもとです。

これは確かでしょう。

残念ながら、交換の失敗と成功は死ぬまで続けるしかないのだと思います。

人には限界があり、失敗のない人生はありません。

出来るのはその調整を続けることのみでしょう。

(こう書いてはいますが、それを認めるのは大変苦しいです。固定的で、安定して、もう失敗しない状態に至れたらどんなにいいだろうかという気持ちを捨てられたことはありません。でも自分を戒め続けないと火事になります。だからトレーニングを続けるしかないのです)

このような考え方をしてみると、誰しもにある自己愛について、少し理解が進んだり、腑に落ちるところがあるかもしれません。もし何かお役に立てる方がいたら、私の自己愛の満足にもつながり、しばし健康な自己愛に浸れるかなと思っています。

(自己愛については学術的な研究の歴史がありますが、本稿はあくまで臨床をしてくる中で、筆者の言葉で理解している自己愛について記述したものです。雑感となりますので、参考程度にしていただければと思います。学術的に事実誤認であったり、倫理的に問題が大きい点がございましたら、ぜひご教示ください。)


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