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川野芽生|菫色の約束
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霧の間にひらめくリボンを追ひかけて訪へり菫色の小部屋を
菫色の小部屋の話を、祖母から聞いたことがございます。
小部屋を訪れた者は、それまで目にしたすべての菫色と、その後目にするすべての菫色を、見出すことになるのだそうです。
ええ、わたくしも、だって菫色って一種類しかないでしょう、と聞きました。祖母は微笑んで、莫迦を仰い、夜に見る夢にひとつとして同じものがないように、この世の菫色にひとつとして同じ色はないのよと申しました。
それは女学院にひそかに伝わる噂話でした。遅かれ早かれ、いつか小部屋を訪れることになると、そう定められている者だけがその小部屋を見出すのだそうで、かれらの目にする菫色は、当人の来訪のはるか前から、女主人の手によって蒐集され、ひとりひとり異なるかたちをした壜に仕舞い込まれているとか。
単なる噂としか、祖母は思っていませんでした。ひとりの級友がふいに話しかけてくるまでは。
菫色の天鵞絨のりぼんで髪を結わえたその少女と、祖母はそれまで、ほとんど言葉を交わしたこともなかったそうですが、彼女はほとんど前置きもなしに、こう言いました。
菫色の小部屋を一緒に探しに行かない? と。
驚く祖母に、彼女はこう続けました。
菫色の夢を、子供の頃からよく見るの。何が登場するでもない、ただ菫色の夢。それがこのところ頻繁なの。私はこれをただの夢ではないと思っているのよ。前世の記憶か、あるいは来世の予告だと。もしミストレスの蒐集する、それまで目にした、あるいはその後目にする菫色というのが、生まれてから死ぬまでという意味ではなく、ひとつの生を超えてその前から後までだったら――私はそれがただの夢ではないという証を得るために、菫色の小部屋へ行かなくてはならないわ。
なぜ私を誘うの、と祖母は尋ねました。
すると彼女は、こともなげに、だってあなたも菫色の一族でしょ、見ればわかるわと答えたのです。
約束の日に、けれど祖母は行きませんでした。
怖くなったのよ、と祖母は言いました。これから目にするはずの菫色をすべて目にしてしまつたら、その先の楽しみを失ってしまう気がして。
菫色のりぼんの級友は、それを最後に姿を消しました。両親とともに外国へ移った、と聞かされたそうです。
ほんとうに怖かったのはね、と祖母は言いました。自分が目にするもののうちで一番菫色なのは彼女なんじゃないかって、それを確かめることだったのかもしれないわ。
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亡くなる前の祖母が最後にその小部屋を訪れたのかどうか、知るすべありません。
ですが、お式に黒ではなく菫色の装いで来ていただきたいと、みなさまにお願いしたのはそうしたわけでございます。
菫色の喪服をまとひ集ひくる先の世のわがいとしき敵
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『菫色の小部屋〜終幕のネセセール』
(2023年12月)
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本編は『菫色詞華集』の一篇として収録
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川野芽生|歌人・小説家 →Linktree
2018年、第29回歌壇賞受賞。第一歌集『Lilith』(書肆侃侃房、2020年)にて第65回現代歌人協会賞受賞。小説集に短篇集『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社、2022年)、掌篇集『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房、2022年)、長篇『奇病庭園』(文藝春秋、2023年)がある。
12月にエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』(左右社)刊行予定。
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