高柳カヨ子|遥か美の名の下に
美意識というものは一朝一夕に形成されるものではない。
それは注意深く己の心に分け入り、貪欲な好奇心と飽くなき探究心を持って、自らの定める美とは何かを追求し続ける精神なのである。
菫色の小部屋に揺るぎなく確固として満ちていた存在、それが美意識というものなのだ。
霧とリボンと出会うきっかけとなったのは、ネットの海の中の微かな美の光跡を追って辿り着いたある作品であった。
その後長くこのブランドのフラグシップ・モデルとなる「O・SA・GEブローチ」である。少女性の象徴たる三つ編みのおさげであると同時に、ヴィクトリア朝時代の遺髪を用いたモーニング・ジュエリーをも連想させるこの「O・SA・GEブローチ」は、その斬新な発想のみならず完成された美しさにとても驚かされた。
この出会い以降ずっと気になっていた “霧とリボン” というブランド名を、ハンドメイド作家が集まるサイトで目にしたのは、それから間もない頃だった。美意識という言葉をかつてない程意識させてくれたトーマス・マン『ベニスに死す』をモチーフにした、ブローチをはじめとするアクセサリー。単なるオマージュではなく、作品を換骨奪胎して再構成したそのモダンなセンスに一目で脱帽した私は、すぐにそのブローチを注文した。
霧とリボンの主催者であるミストレス・ノールと言葉を交わしたのは、その時が最初である。やり取りを交わす過程で、私が法医学教室に在籍していた時にインタビューを受けた「夜想#ゴス」という雑誌の記事について彼女から言及してもらえたのがとても光栄で、これをきっかけに距離が縮まったと言えるだろう。
程なくして、ミストレス・ノールの美意識が凝縮された菫色の小部屋 “Private Cabinet” が誕生した。
吉祥寺駅周辺の喧騒を抜けてしばらく歩けば、わずかに武蔵野の面影を残した木々が残る公園などが目につくようになる。閑静な住宅地を通り過ぎて小道に入ると、そこにほんのりと菫色の光を帯びた心地よく秘密めいた場所が現れるのだ。
菫色と銀色のストライプの壁紙を照らす瀟洒なシャンデリア。数々の個性的な作家の作品たちを懐深く抱いてきたキャビネット。そしてなによりもミストレス・ノールのきめ細やかな気配りとあたたかいホスピタリティ。それは単なる優しさではない。この小部屋の主として、隅々まで張り巡らされた美意識の体現者在らんとする毅然とした決意なのである。
菫色の小部屋では「服」「音」「色」というテーマで、サロンを開催させてもらった。サロンという少人数の親密な雰囲気の中で、自らの思考を思う存分言葉にのせて伝えるという濃密な時間を過ごせたのは、思い返しても幸せな経験であった。
そしてこの小部屋があったからこそ、少女性をテーマにした「少女の聖域」という展覧会の開催が叶えられたのだと思っている。こちらも2020年の初回から「跳躍と疾走」「魔法大全」「真昼の月」と今年で4回を数えた。
コロナ禍でオンライン展示となった中、私の武器であるテクストを縦横に駆使して作品を紹介する機会を与えてもらったことが、その後の自分の文章力の糧となったのは間違いない。高柳の感性を尊重して出展する作家を自由にセレクトさせてもらえたことにも、本当に感謝している。
それだけではない。ミストレス・ノールが企画するオンライン展示では、これまで私と接点がなかった様々の素晴らしいアーティストたちと、展覧会に寄せるテクストの執筆を通じて出会うことが出来た。この画像とテクストを駆使して行われた霧とリボンの独創的な展覧会で、菫色の美しい空間がさながら目の前に現れたかのように演出されていたことは、ご覧になった方々はご存知だろう。
現在の菫色の小部屋はいったん幕を下ろした。
あの心地良い空間が無くなるのは寂しいが、これまでオンライン上に構築されてきた「モーヴ街」を含む霧とリボンのサイトが、物理的な菫色の空間と繋がっていることは間違いない。
これからもネットの中の菫色の小部屋には、時代を超えて様々なアーティストの作品が美しく並べられることだろう。そしてそこではいつでも霧とリボンという名前を持つ稀有な美意識に出会うことができるのだ。
ミストレス・ノールのやわらかい笑顔に迎えられながら。
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