巻頭エッセイ|熊谷めぐみ|植物への情熱を旅行鞄につめて
19世紀イギリス、旅と植物を愛した一人の女性がいた。
彼女の名前はマリアンヌ・ノース。1830年、イングランドのヘイスティングズで上流階級の家庭に生まれたマリアンヌは、若い頃から音楽などの芸術に親しみ、家族に連れられて外国を旅する機会も多くありました。
植物へ強い関心を抱き、植物を描くことにも没頭していったマリアンヌは、1869年に父親が亡くなると、世界中の植物を描くため、1871年から85年にかけ、二度にわたって、ブラジル、インド、オーストラリアなど、15か国を旅して回ります。1875年から76年にかけては日本にも訪れていて、東京、神戸、大阪、京都といった地に滞在し、藤の花で飾られた富士の絵などを描きました。
旅先のひとつであるセイロン島では、作家ヴァージニア・ウルフの大伯母で、写真家のジュリア・マーガレット・キャメロンとも出会っており、背筋を伸ばして作品を描く凛としたマリアンヌの姿を写真に残しています。
油絵具で描かれたマリアンヌの緻密で独創的な作品は800点以上にのぼり、植物に対する並々ならぬ関心と鋭い洞察力を伝えています。作品は、マリアンヌ自身が建立を提案した、英国王立植物園キューガーデンのマリアンヌ・ノース・ギャラリーで今も目にすることができます。
今年の2月、キューガーデンのマリアンヌ・ノース・ギャラリーを訪ねる機会を得ました。地下鉄ディストリクト・ラインのキューガーデン駅から徒歩で向かうと、入り口の一つであるヴィクトリア・ゲートにたどり着きます。花の盛りの季節ではなく、天気も曇り空ですが、入り口には訪れる人で列が出来ていました。
ゲートから近い場所にあり、大勢の人であふれるヴィクトリア朝様式の温室パーム・ハウスに比べると、マリアンヌ・ノース・ギャラリーは、少し離れた場所にあり、外観も決して派手ではありません。
しかし、一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がります。美しく装飾を施されたギャラリーの壁中に飾られた、個性豊かな植物画の数々。832点の絵画に圧倒され、思わず息を呑みます。
旅先でマリアンヌが描いた一つ一つの作品。絵を前にすると、その場所の温度や花の香り、植物の手触り、それを描くマリアンヌの息づかいまでが感じられるようです。
ギャラリー内部は撮影禁止。植物と旅への情熱の集大成を、カメラではなく、目と記憶に焼き付けました。
マリアンヌ・ノースの絵には、作品を目にする人を一瞬で描かれた場所へと導いてくれる力があります。
植物に情熱を傾けたアーティストであり、稀代の旅人でもあったマリアンヌ・ノース。その精神は後世の芸術家たちにも受け継がれています。
マリアンヌ・ノースへオードを捧げる本展《植物と香りのネセセール〜マリアンヌ・ノースの旅》では、作家たちがそれぞれ個性豊かな世界へと連れ出してくれます。
期待と好奇心をあなただけの旅行鞄(ネセセール)につめて、植物と香りをめぐる旅をしてみませんか。
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