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森 大那|菫色集

森 大那|菫色集
記念コフレ『菫色の小部屋〜終幕のネセセール』
(2023)収録

 部屋の灯りを点ける時、その瞬間にだけ、見たこともない景色が出現する。
 毎日眺め、眼をつぶっても暮らせるほど馴染みがあるのに、その瞬間だけは、子供の頃に一度だけ足を踏み入れたような気がする夜の遊園地、夜の砂漠の上をゆく郵便機の出発時刻を待つ飛行士の待合室、いわく付きの古酒たちが秘された城塞の地下室を目撃する。
 それはピカソ的分解、ベーコン的歪曲、モネ的融解、セガンティーニ的輪郭、ルドン的陰影、ルソー的温度、デ・キリコ的遠近法であり、その一瞬を、私たちは追い求めているのだ、シネマの大幕の表面、劇場の役者の声、彫刻の姿態、音楽の一節、あの詩のあの一連、あの公園のあのベンチ、あの駅のあの跨線橋、あのギャラリーのあの空間の中に。

科学は一方で広大な範囲に及ぶ権威的な宣告をつきつけるが、他方では、細部の不一致にたいしてたんに寛容であるばかりでなく、創造性をひめた不一致には最高級の奨励をあたえる。

マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』

 「都会」と「都市」の違いとは何でしょう?
 ふたりの歌手が話している時、「あなたの音楽は都会的で、私の音楽は都市的ね」と言うのを耳にしたことがあります。
 言語学にはコノテーションなどという概念がありますが、これは、直接的ではない意味、ある言葉の言外の意味を指すものです。
 田舎から上京してきた私の友人は、「都会」という一言はその中心地から郊外までを語りおおせていると言い、別の友人は、むしろ「都市」こそがそれであると説きます。
 またそうではなく、都会とは「都会でない場所」から語られる想像であり、逆に都市とは「都会」の現実実態とも考えられます。
 では、都会と都市のあいだには、何があるのでしょうか。それはどこにあるのでしょうか。

たとえば諸君は、夜おそく家に帰る汽車に乗ってる。始め停車場を出発した時、汽車はレールを真直に、東から西へ向って走っている。だがしばらくする中に、諸君はうたた寝の夢から醒める。そして汽車の進行する方角が、いつのまにか反対になり、西から東へと、逆に走ってることに気が付いてくる。諸君の理性は、決してそんなはずがないと思う。しかも知覚上の事実として、汽車はたしかに反対に、諸君の目的地から遠ざかって行く。そうした時、試みに窓から外を眺めて見給え。いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。

萩原朔太郎「猫町」

 今はもうないギャラリーで、1枚の絵画を見たことが今でも思い出されます。
 夕刻の、空がもう暖色を失いつつあり、周囲の木々の黒い葉が冷たさを蓄えつつある時刻の、山の上の天文台を描いたものです。
 その空を見た時、「この色はかつて目にしたことがある!」と気づいたのでした。
 一度目は、町工場の点在する古い町に住んでいた頃、ある日偶然、同級生の男の子が電柱の裏に隠れて、毎夕そこを通る少女を待っているのを見た時、その路地の色です。
 二度目は、シーズンの少し過ぎた海水浴場で深くまで潜り、波を下から見上げた時、渦巻く水面の向こう側に見た色です。
 三度目は、高校生の秋に初めて読んだ、稲垣足穂の小説「一千一秒物語」の街角の色です。太陽の野暮な明るさを無視する、夕暮れ時と夜へのこだわりに貫かれた散文は、流星と衝突してしまうプラタナス並木、月がブリキ製だと語る声の聞こえる倉庫裏といった景色が続く、ひとつの街のような文書であり、その道を自分の足で歩いていると、葉巻色ココア色の夕方の小径を進むことになるのですが、白い霧が降る真夜中には、アブサン色の街灯が、通り一面がガラス製であるように錯覚させたりするのでした。
 その日は、友人と例の天文台へゆくため待ち合わせ、mauveの気配の立ち込める一角でシガレットをもらった時でした。
 「月だ」
 と友人が言うので、えっ、と前方と見ると、バスケットボール大の月がちょうど胸あたりの高さに浮いて角を曲がるところでした。
 「散々人に殴る蹴るをやってたお月様ってあいつか?」
 「刊行からちょうど100年目だ。今度はこちらの番さ、このまま袋小路に追い詰めて蹴り潰してやれ」

なぜ「笑い」が「笑い」のまま芸術として通用できぬのであろうか? 笑いはそんなにも騒々しいものであろうか? 涙はそんなにも物静かなものであろうか?

坂口安吾「ピエロ伝道者」

 いま書き出そうとしている。いま始めようとしている。
 紫色に対する私の偏愛は、その理由を説明できたことがただの一度もないのに、多くの友人が分かってくれる。
 例えばノートを開いてページの真ん中に国境のように紫の縦の線を引くと、その線は分離でも紐帯でもなく、ひとつの存在として感じられる。過去や未来、厳しさと柔らかさ、空想と現実、実現したものとこれから実現するもの、そんなものを内包した、線なのに広がりの予感さえあるひとつの存在として見える。黒やブルーではこうはいかない。だから私は幼い頃から、紫を仲間だと思ってきた。私は、この色に裏切られたことがない。
 ペン先にインクをひたして手紙の上へ持ち上げると、一滴、尖端からこぼれて行った。

 遥か昔、「書く」とは「刻みつける」ことを意味していた。
 しかし、尖筆で粘土板に印をつけることと、インクを紙に吸わせることは、異なる行為だ。
 後者は、性質がまったく違うふたつのものが遭遇する契機としてある。

 モーヴの雫には、詩集や小説を並べた書棚が映っている。柔らかなカーテンとリボンが映っている。いくつもの夜に輝きを生み出したランプとシャンデリアが映っている。窓の外の白いクレマチスが映っている。いましがたやってきた機嫌の良さそうな鳥が映っている。運命とは運命など無いことであると思い出させてくれる香水の瓶たちが映っている。あらゆる出発とあらゆる完結に同行してくれるドレスとトランクと手袋が映っている。

 一滴の全身に周囲の光景を纏った菫色の雫は、落ちてゆき、ついに白い紙の上に着地すると、その表面は踊り子の腕のような速さでやわらかく歪み、その身の下から、繊維の集積の中へ奥へと滲み渡り、光は雫の頂点に集まり、瞬きの間に驚くべき輝きを放って、紙の中へ隠れる。
 菫色の小部屋は手紙の中に含み込まれる。

封 森 大那

霧とリボン「荒涼館」香水箱シリーズ(2020)

森 大那|作家・『彗星ブッククラブ』主宰 YouTube
1993年東京生まれ。早稲田大学卒業後、2016年より文芸誌『新奇蹟』にて小説・詩・批評を発表。2018年よりWebサイト『彗星読書倶楽部』を開設し、読書会を主催する。2021年より、文学作品を解説するYouTubeチャンネル『彗星読書倶楽部』開設。2023年6月、作品集『深い瞳を鋭くして』刊行。同年11月より、【オールインワンの読書体験】を提供するオンライン書店『彗星ブッククラブ』を開設。

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