「他人の記事を朗読する」ということ
最近しれっと「物書きナレーター」を自称するようになりました。
群雄割拠するナレーター界隈の中で、ひときわブランディングに力を入れようと考えた結果がこれです。
そもそも「虹倉きり」とは何者なのでしょうか?
ある時は「吸血鬼小説家」。
またある時は「言いたいことは包み隠さず書くエッセイスト」。
さらにある時は「青森で面白いヒト・モノ・コトを探すライター」。
またまたある時は「元放送部のナレーター」。
そしてある時は「他人のnoteを読む朗読家」。
あなたの中の「虹倉きり」はどれですか?
「物書き」「ナレーション」「朗読」のスキル向上で共通していることがあります。
それは、他人の言葉に触れることです。
ボキャブラリーを増やし、物書きに活かす。
他人の言葉を読んで、ナレーションに活かす。
文章の特色を再現して、朗読に活かす。
他人の記事を読むことで、一度に三つの楽しみが味わえます。
だけどもそれは「他人の言葉を代弁する責任」も伴います。
筆者は何を思ってこの言葉を綴ったのでしょうか?
言葉一つに込められた想い、呼吸する句読点、フォントが示す意味…それらを通してあなたにお伝えしたいことがあるのです。
物書きとナレーションをしてきてわかったことがあります。
「伝えること」に読みも話も書きも関係ないということです。
だって、それらはあくまで「手段」に過ぎないから。
ですが、ひとつの手段で全部が伝わるとは限りません。
だから私は「他人の記事を読む」のです。
「虹倉きり」は何者なのか?
それは「実体がない言葉の代弁者」なのかもしれません。
言いたいことがあるから言葉を紡ぎます。
もしかすると、想定外の印象をもたらすかもしれません。
だったら、別の印象を別の手段で伝えましょう。
「意志のある声」は文章に命を吹き込みます。
あなたの言葉が、文字が、表現が、声になって躍ります。
小説であれば「登場人物に命が宿る」。
エッセイであれば「何気ない日常風景が違う彩色を放つ」。
紹介記事であれば「本当に必要としている人の耳に届ける」。
伝えることを生業とする私だからできる朗読。
伝わりづらい現代だからこそ、「伝える」朗読であなたの想いを代弁します。
あなたの文章を私に伝えさせてください。
だって虹倉きりは「伝え手」なのですから。