定時研究報告002「“不本意ながら”ターザン山本最後の教えと、新たな師匠有田哲平(プロレス報道暗史)」

拙文を読んだ方に「中里さんのライブレポートには90年代週刊プロレスの情念を感じていた」という、とても嬉しい評価を頂きました。本当は、実は嬉しいような、そうでもないような、複雑な心境になる話なのですが、僕の文章を真剣に受けとってくれている証拠なので、嬉しい、と表現しました。

今回はプロレスの話をします。最後に少し、アイドルの物語を伝えるという作業についてのスタイルと信念の話に着地しますので、よければ今日も長文におつきあいください。

ターザン山本という人がいます。彼はプロレス報道の歴史において、最高の人物であるとともに、おそらく最悪の人物でもあると思います。平成前半のプロレス史は「ターザン山本」という怪人の歴史でもあるのです。

現在も刊行されている「週刊プロレス」という雑誌は、ベースボールマガジン社が刊行しているプロレス雑誌です。僕がプロレスに興味を持った1980年代終わりから1990年代において、プロレス雑誌の世界は「週刊プロレス」と「週刊ゴング」に二分されていました。

週刊プロレスは、二代目編集長・ターザン山本という、一言で言えば奇人が主導権を握って以来、独特の路線を辿ります。クラスマガジン(ジャンルの専門誌)の常道からはずれ、特定の団体やレスラーに強く肩入れしたり、レスラーやプロレスたるものかくあるべし、というような、雑誌としてのオピニオンを強く発するようになりました。

今思えば古くさいですが、「プロ格」と称して、アントニオ猪木の異種格闘技戦から、桜庭和志の総合格闘技参戦に至るまで、格闘技の視点で見てもプロレスラーは強くなければならないという概念を提唱したり。全日本女子プロレスの北斗晶選手のような、身体能力ではなく情念、うちに燃える炎や、プロレスを考える頭、そしてプロレスを愛するハートこそが素晴らしいという肩入れの仕方をしました。女子プロレスが好きだった自分にとって、比較的マイナーな女子プロレス団体・LLPWの紅夜叉選手を記念号の表紙に抜擢したターザン山本さんは、痛快な存在でもありました。

一方、ライバルの週刊ゴングは、業界の頂点・新日本プロレスと蜜月というべき関係でした。新日本プロレスである意味経営陣以上の権力を持っていた現場責任者・長州力さんは、週刊ゴングとツーカーでした。長州さんが、週刊ゴングの金沢克彦さんに対して「おい、金沢!」と呼びかける関係性は有名ですが、やはりこちらも専門誌編集長とプロ競技者の関係性としては、かなり特殊なものと言えるでしょう。

まともではない主張を繰り返す週刊プロレスと、業界最大手とうまくつきあい、まともで普通な記事を書く週刊ゴング。社会人として正しいのはおそらくゴングですが、ターザン山本さんが主導する週プロの“ヤバさ”は多くの読者にとってとても魅力的で、週刊プロレスは創刊史上最高の売り上げを記録するようになります。

当時のターザン山本さんの輝きを示すワードとして、「密航」という言葉の発明があります。1988年4月に旗揚げした「(第2次)UWF」というプロレス団体であり、ムーブメントがありました。UWFは「プロレスこそ最強の格闘技である」という理念のもと、前田日明、高田伸彦(延彦)、藤原喜明といったレスラーたちが、本気で蹴っ飛ばしたり、関節を極めたりする、とても格闘技色が強いプロレス団体でした。

そんなUWFという、既存のプロレス団体を真っ向から否定するようなコンセプトの団体を取り上げるアプローチとして、ターザン山本さんはそのファンに着目しました。東京から地方へ、あるいは地方から東京へ。熱狂的な、しかしお金のないファンたちが鈍行列車を乗りついで、あるいは夜行バスやフェリーでプロレス興行に向かう。その現象をターザン山本さんは「密航」と呼び、熱狂的なファンの在り方として煽り立てたのです。

前田日明さんの名言に 「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」というものがありますが、会場に通う現場主義の若者たちにとって、「密航」という秘密めいた響きは特権意識をくすぐるような、気持ちいいものだったのは間違いないと思います。

当時のUWFとファンの共犯関係を示すエピソードとして、UWFのプラチナチケットを手に入れるために徹夜で行列していたファンたちの前に、前田日明選手、高田伸彦選手、山崎一夫選手といったトップレスラーが現れて、缶コーヒーを差し入れするという事件がありました。そのファンは一生その選手のファンになったと思いますが、そんな熱心なファンたちとムーブメントを表現する言葉として「密航」という言葉はとても強いフレーズだったと思います。

言論を通じて影響力を増したターザン山本体制の週刊プロレスは1995年4月2日、プロレス界のオールスター戦「夢の懸け橋」を東京ドームで開催します。主催はベースボール・マガジン社ですが、当時の週プロの強権的なやり方がターザン山本さんという個人のカラーを色濃く反映していたことは間違いありません。

一方、ライバルの週刊ゴングは、同日に東京ドームの隣にある後楽園ホールで開催された「WAR」(天龍源一郎選手の団体です)の興行を全面バックアップしました。これは多くのファンには(山本さんの独善さと狂気と比較して)ゴングのまともさを示すエピソードとして受け取られましたが、後年の公平な視点から見れば、全団体参加のドームオールスター興行を「スルー」して、比較的ローカル団体の一興行に肩入れする姿勢は、健全なものではありません。そもそも、編集長が一プロレス団体の選手に「おい、金沢」と呼びつけられることが親愛のエピソードとして語られること自体、バランスを欠いていたと言えるでしょう。

ターザン山本体制の週刊プロレスに対する対立概念として存在感を持っていた週刊ゴングですが、ターザン山本さんが追放同然に週プロを去ってからは精彩を欠いたように感じました。週刊ゴングは2007年に、ひっそりと休刊を余儀なくされます。「ターザン山本という狂気」には、周囲や、ライバル誌すらもおかしくしてしまう魔力があったのではないかと思います。

さて、ここまでがターザン山本さんの功罪、光と影の「光」の部分です。嘘だろ、と思われるかもしれませんが、リング以外の文脈、レスラーの生き様に光を当てた彼の手法を、僕は肯定的にとらえています。

ターザン山本さん、いえ、山本隆司さんの罪を示すエピソードとして有名なのは、山本さんが当時の全日本プロレス社長、ジャイアント馬場さんと昵懇の仲だったことです。ジャイアント馬場さん、元子夫人とひんぱんに会食した際のターザン山本さんは、太鼓持ちのようにふるまい、かわいがられていました。

そこまでなら良かったのですが、ターザン山本さんは馬場夫妻から少なくない額のお金をもらっていたそうです。そして、編集長としての権利を濫用して、当時全日本プロレスからたくさんの選手を引き抜いたSWSという団体を潰すキャンペーンを展開したのです。

SWSはメガネスーパーが作った団体で、当時のトップ団体・新日本プロレスや全日本プロレスから選手を高額のギャランティで引き抜いて成立しました。一説によれば、社長さんや、その息子さんが大のプロレスファンだったからだ、とも言われています。

既存の団体からすれば、そんな半ば趣味のような、ぼくが考えた最強団体を実現するために選手を引き抜かれてはたまりません。しかし──特定の団体の長から裏金を受け取り、その命令に従ってライバル団体を批判するキャンペーンをはり、叩く。そんなことが人としても、記者の職業倫理としても許されるはずがありません。

SWSはあっという間に潰れますが、理由はどうあれ、「プロレスに巨額の投資をして、理想のプロレス団体を作ろう」としたスポンサーを業界が一丸となって追い出したのですから、その後プロレス業界が徐々に崩壊に向かったのは当然だと、僕は考えています。

そんな経緯を経て冬の時代を迎えたプロレス業界、その旗手たる新日本プロレスがどのように再生したかもとても面白いエピソードなのですが、それはターザン山本さんのついでに話すようなことではないので、今はやめておきます。

それ以外にも、人間・山本隆司さんの編集長人生は、ダーティーな噂でいっぱいです。曰く、全日本プロレスから裏金を受け取っていた。曰く、大仁田厚さんから裏金を受け取っていた。そして驚くべきことに、SWSをそれ以上叩かない条件として、SWSからも裏金を受け取っていたなんて話もあります。誌面でSWSを「金権プロレス!」として糾弾していた男が、実は利益関係者である当事者の双方から賄賂をうけとって、コウモリのようにふるまっていたとしたら、許されるはずがありません。

こんなことを書いて大丈夫なのかと心配している人もいると思うのですが、ターザン山本さんはこれらの話を、自ら著書の中で全告白しています。理由はわかりませんが、目先のお金がほしかったのだと思います。事実、これらを書いた山本さんの本はたくさん売れました。

ただしこれらは、当時のプロレスファンなら誰でも知っていたエピソード(噂)と、ターザン山本さん自身の著書での告白に基づいています。SWS首脳や、全日本プロレス首脳、大仁田厚さんといった、裏金を渡したとされる人たちには、違った言い分があるかもしれません。奔放に生きてきたターザン山本さんが正直者であると信じる理由もありません。

この文章は、当時のプロレス界の告発(わりと誰でも知ってる話ですけど)を目的としたものではなく、このような主張を繰り返すターザン山本さんを、僕が尊敬することはなくなり、名前を見ると顔をしかめるようになってしまった、という事実をお伝えするためのものです。おそらく、当時の週プロ読者なら「こんな人に踊らされていたのか……」という感情に、共感してくれるのではないかと思います。

しかし、大人になった僕は困りました。明らかに自分は週刊プロレスの影響を受けていますが、今の時代に明かされている情報、今の時代の感覚からすれば、ターザン山本さんの影響を受けている、などと話せば、それだけで書き手として、社会人としての信頼感がうしなわれかねません。

そこで、僕はターザン山本さんが影響を受けた、週刊ファイトの井上義啓さんに注目しました。井上義啓さんは後にターザン山本さんがメジャーにした「活字プロレス」というジャンルの生みの親です。井上さんは「プロレスは底が丸見えの底なし沼」「平成のデルフィンたち」といった言葉を残しています。後者は、ドロドロとした情念やプロレスラーのバックボーンを深読みするのではなく、ライトにリング上のプロレスを楽しむ新世代のプロレスファンを表現した言葉でした。

そんな、誌面では自分自身の主義主張をはっきり表現する井上編集長でしたが、ターザン山本さんとは大きな違いがありました。井上さんは酒もタバコもやらず、結婚もせず、生涯独身で清貧を貫きました。「I編集長の喫茶店トーク」という言葉があったのですが、往時プロレスファンから編集部に電話があると、井上編集長はファンを喫茶店に呼んで、何時間もプロレス談義(講義?)に花を咲かせたそうです。

人生のすべてを、プロレスを語ることに費やし、死んでいった井上編集長の生き方を僕は尊敬していますし、自分はターザン山本さんのようにではなく、井上編集長のように生きたいと願っています。

ですから、僕は自分のスタイルを語る時に、わかりにくくなるのを承知で「週刊ファイトの井上義啓さんの活字プロレスに影響を受けている」と話します。読んだ時に、ライブ現場にいた時には見えなかった、あるいはチケットが取れなかったライブにあった何かが、記事を通して見えてくるような、そんな記事を書きたいと思っているのです。

僕にとって反面教師・ターザン山本さんからの最後の教えは、文章を書いて原稿料を頂くことがあっても、金で自分の価値観や魂を売ってはならない、ということです。ターザン山本さんは、何故井上編集長の高潔さは学んでくれなかったのだろうと悲しく思うこともありますが、彼が強欲でセルフィッシュな人間だったからこそ、その文章や行動はあれほどの引力を持っていたのかもしれないとも思います。

少しライターとしての自分の話をすると、僕も人間ですから、この人は取材に協力的で、面白い話をしてくれるからありがたいな、と好感を持つようなことはあります。反対に、こちらは今のアニメ・声優業界ではほとんどないことですが、難しい人だな、と感じることもあります。僕に仕事をくれる会社もあれば(笑)、雑な扱いをされてるなと思うこともあります。

ですが、そのことと記事の内容は、一切関係がありません。

あるライブをレポートして、僕がAさんは素晴らしいという内容の記事を書いたとします。仮にAさんが僕のいわゆる推しだとしたら、そんな記事(判断)に、誰が価値を認めますか?

ですから、フラットな状態でライブを見て、その日にこの人が輝いていたな、と思う人がいたら、その人が輝いていたと「僕は感じた」と──いいですか、ここはものすごく重要なポイントです──書きます。さらに、僕はセットリストの向こうにある文脈を読みこもうとするので、「メモリアルなタイミングを迎えるこの人を、ライブチームがプッシュしようとしている」と感じたら、そこも重点的に書きます。

準備や、歴史や、そのライブに賭ける演者の努力や、想いや、全てを含めた上で、その日のステージの上にあるものが全て。それが僕が超主観的レポートを書く際に自分に課しているルールです。

もちろん、これは「感性」に立脚するものなので、このパフォーマンスは良いな、と思う頻度が多い演者は存在します。それは、都度都度判断した上で、「今日はこの人のここが良かった」と毎回新たに書いています。最近はライブ出演者が多すぎて、全員にフォーカスしていては何万字あっても足りないことが増えました。

ですが、たとえばライブの初日にこの人の良かったところを言語化できなかったな、と思ったら、翌日のDAY2にその人に対する自分の注目度を少し上げたりはします。これが自分のライターとしての経験値であり、バランス感覚だと思っています。僕にとってライティングとは基本、良かった探しであり、その魅力を共有しようとする作業でもあります。

(何度か試したことはありますが、記事上での「苦言」や「改善提案」は、効果としてもエンターテイメントとしてもあまりよい手ごたえがありませんでした)

タイトルにある有田の話はいつ出てくるんだよ、と思っているかもしれません。有田哲平さんとはもちろん、元海砂利水魚、現くりぃむしちゅーの芸人・有田哲平さんのことです。

井上編集長が故人となり、ターザン山本さんがプロレス編集者としては去った今、活字プロレスは死に絶えました。「紙のプロレス」という雑誌がかわりを担おうとした時期もありましたが、プロレスをどこか馬鹿にしたような筆致で、面白おかしく語るスタイルは、活字プロレスの代替にはなりえませんでした。少なくとも僕にとってはそうでした。

こんなにも楽しい、文脈を楽しむプロレスというジャンルがなくなってしまうのかと思っていた頃に、2016年、突然アマゾンプライムに登場したのが「有田と週刊プロレスと」というウェブ番組です。

「有田と週刊プロレスと」では、倉持明日香さんとプロレスをあまり知らないゲストを生徒役にして、プロレス大好き芸人・有田哲平さんが各回一冊の週刊プロレスをテーマに、30分語りつくすトークを展開します。シーズン1から順番に見ていけば、猪木と馬場(力道山は週プロや有田さんの守備範囲ではあまりない)から始まり、今の新日本プロレス隆盛の時代に至るまでの物語がわかりやすく、そしてマニアックに語られていきます。

雑誌の作り手のトップはダーティーだったかもしれませんが、週刊プロレスが「活字プロレス」というスタイルを通して伝えたかった物語は、今でも有田さんの中に息づいています。そして、その物語はくりぃむしちゅーの有田哲平という一流のトーク芸人の話術によって、今の若いファンにも共有されているのです。これは、地上波バラエティというフォーマットと視聴者層に合わせ、単発でネタとして面白くしないといけない「アメトーク」にはできないことです。

たくさんのプロレス雑誌や、暴露本や、パソコン通信などで語られる細々とした「口伝」を通してしかプロレスを学べなかった僕は、有田哲平さんという教師を持っている人たちに、少ししっとをしています。

井上編集長のプロレス論のスタイルは素晴らしいですが、その内容については今の視点で見ると、少し古いです。当然です、昔の文章ですから。

今、若い世代にも楽しく、面白く、歴史が持つダイナミズムと物語を伝えるという作業は、僕が今一番やりたくて、でも力が足りない分野です。ですから今、目標とする人物は? と聞かれたら、「「有田と週刊プロレスと」の有田さん」と答えます。

しかし前田日明さんの「選ばれし者の恍惚と不安」ではありませんが、あのスタイルは一流の芸能人として選ばれ、磨かれた有田さんに特有のものなので、もちろん真似をすることはできません。

ですから、僕は自分が唯一使える「活字」という古くさいオールドメディアで、これからもコンテンツと格闘していきたいと考えています。

【文:中里キリ】


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