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エコロジーの行方
「勿体ない」は嫌いな言葉ではない。
実際、今乗っている自転車は35年以上使っているし、フットサルで使うレガースも15年は使っている。
単にケチなだけかもしれないが、まだまだ使えるものを敢えて捨てて新しくすることにさほど興味を持たないのかもしれない。
勿体ないから大切に…これは生活感の中の経済的に妥当性がある考え方である。
もう一つは産み出した人、労力に対する感謝リスペクトを表することでもある。
子どもの頃、茶碗に付いた米粒も残さず食べるように言われた。農家の米作りに対する尊敬を教わったものだ。
情操的にとても大切な考え方で、自身も親として子どもに伝えたし、物質的な豊かさとは関係なく、これからも大切に持ち続けてほしいと願っている。
その「勿体ない」精神は、エコロジーの入口でよく使われる。
ただ、よく言われる「地球に優しい」という観念には違和感を覚えてしまう。
確かにモノを大切にすることは大きな視点で観れば、環境負荷を下げることになるから、エコロジーに沿うものかもしれない。
でも一方では、モノが売れてカネが動くために消費する必要もあって、市井の人々はアクセルをふかすのと同時にブレーキを踏むような支離滅裂なストーリーの中に組み込まれている気がする。
最近では当たり前に言われる英語四文字の「持続可能な社会」も違和感だらけで、そんなお題目を掲げなくても、人は普通に生命を紡いで来たし、これからも紡いでいくための叡智は、特定の者に向けた利益誘導が無ければ普通に育まれる。
エコロジーという思想、ワシは実に恐ろしいものに化けつつあると思っている。もしかしたらもう化けてしまっているかもしれない。
そもそも論として、環境にとって良い悪いという概念自体、根拠が薄くて曖昧ではないかとワシは行き着いてしまう。
地球が本来のありのままの姿をヨシとするなら、数十億年前とされる地球誕生まで遡るのが良いのだろうか。
人は例外なく生きていくためには地球環境によろしくないことを重ねていく。
自然にある森林を切り開き、田畑を作り食料を得る。川から水を得て、汚水を海や川に流す。息をすれば環境に悪い(らしい)二酸化炭素を増やす。
ワシも毎日やっている。今これを書いている瞬間も息をしてCo2を大気に放っている。まさに罪人に違いない。
エコロジーを特定の意図を持って広める方々が次に何を言い出すかは見えている。
「人そのものが環境に悪いから、人を減らして優秀な人たちに限って環境負荷を減らしましょう!」
こういう分かりやすい言い方は決してされないが、すでにその動きは顕在化してきている。
誰が「優秀な人」を選別するのだろうか。実に恐ろしい、おぞましい発想ではないか。
エコロジーだけの話に限らないが、物事を深く考えずに、ぱっと見やイメージだけで軽信して、諸手を挙げて賛同するのは実に愚かなことだ。
挙げ句の果てに異論を「陰謀論」として、異論を唱える人の口を塞ぎ、さらに簡単に一蹴するなど自殺行為そのものだろう。
エコロジーの裏に潜むのは、目に見えるお花畑ではない。致死量の毒入りのヘドロではないか。