幸せの要件
中学生の頃に通った学習塾の先生のことを思い出した。
もう35年以上も昔の話である。通った中学の環境は色々な意味で問題があった。もしも人生をやり直せるとしても中学時代には戻りたくない。
授業を受ける意思もなくただ刹那で自堕落を絵に描いたような生徒たち。校内には護身用に竹刀を持って彷徨く教員連中。
子どもを戦場に送るなと言いながら、学校こそ戦場みたいな場所だった。多分今の基準なら教員の8割は1週間の間に懲戒免職になっていただろう。
そんな時代にタブーなく世の中のことを教えてくれたのがこの塾の先生だった。今みたいなシステム化された塾ではない。すべての授業をこの先生独りでこなしていた。さすがその世界で喰っているだけのことはあった。
入学して、教員たちのレベルの低さに唖然とするのに時間は掛からなかった。塾で学んだ内容が大した咀嚼もなく中学の授業で出るから余計に教える側の器量力量が判断できた。だからこそ余計に生意気な生徒として映ったに違いない。
教科書に載っていることは読めば大概は分かる。ワシが知りたいのは教科書に載っているその先にあった。すべてとは言わないが殆どの教員が塾で学んでいる生徒を目の敵にして、拙い授業だけで学ぶことを善とすることに公然と逆らった。自分たちを絶対的な存在として、生徒が従順であることに教員たちは執着していたように見えた。教師志望だったワシを幻滅させるには充分過ぎる日々だった。
知りたかったのは正解ではなく、どうやって自分なりの答えに辿り着くかというプロセスだったのに、残念ながら中学時代の教員からは学ぶことはできなかった。
昔の自分を美化するつもりは毛頭ないけれど、正しいか正しくないかだけが判断基準ではないことは14歳の時点で既に分かっていたような気がする。勝ち負けだけが価値付けの分かれ目でもないことも具体的に表現できなかっただけで、フレームは理解していたように思う。
勝ち組、負け組という言葉、低レベルのメディアが作り出した、文字にもしたくないくらい愚かしい表現である。
まるで人生に絶対的な勝ち負けが存在するかのような言い方は、要約すれば貧富の差であり美醜の差である。ただそれだけのこと。そもそも、幸せの定義など十人十色どころではなく万人万色ではないか。何をして勝ち負けがあるのだろう。
カネと見た目の基準なら、ワシは明らかな「負け組」を自覚する。飢えない程度の稼ぎはあるが金に余裕などないし、見た目も冴えないひねくれ根性の刹那な親父である。
カネがあれば勝ち…確かにカネがあれば良いモノは買えて有難いし、衣食足りて礼節を知るのも多分真理だろう。
美しいと勝ち…すらっとした男前ならブ男ならではの苦労はしなくて良かったかもしれない。実際に綺麗な女性が大好きだから余計に思う。
持たない者の僻みと言って貰って一向に差し支えないが、その程度で手に入る幸せならワシは3日で飽きるような気がする。もちろん死ぬまで幸せを感じる方もいらっしゃるのだろうし、それを否定はしない。
まだ自分なりの答えに辿り着いていないがきっと経験則から言うと、幸せとは、魂が喜ぶ震えることなのかなと思っている。
経済的な損得とか、目に映る美しさは刹那な喜びであり、それを超えて魂が喜ぶ場面はそうそうない。それがワシの大切にしたい幸せ。
そんな場面にこれから何回巡り会えるのだろうか。やはり死ぬ間際にしか、幸せだったのかどうかの総括はできないような気がする。