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社会から得た富を社会に還元して成功した大原孫三郎

岡山市への出張の機会を利用して、倉敷を訪れました。

倉敷駅から歩いて美観地区へ。
川舟が行き来する倉敷川、柳並木、白壁、なまこ壁の屋敷、洋館、土蔵などが江戸の風情を漂わせ、デニム、雑貨、喫茶店、 スイーツなど個性的なお店も連なって、多くの人で賑わっていました。

美観地区の街並みをぶらついた後は大原美術館へ。
ギリシャの神殿のような建物がひときわ目をひきます。

大原美術館は倉敷紡績などの社長を務めた事業家大原孫三郎が作った、日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。
コレクションとしては、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスといった巨匠の作品が有名で、これらは本館に展示されています。
分館には岸田劉生や青木繁といった日本の近代洋画家の作品が、そして工芸館という土蔵を改造した建物には棟方志功、芹沢銈介など民藝運動の作家の作品が展示されています。
超一流のコレクションを十分に堪能させていただきました。

その後、倉紡記念館へ。
倉敷紡績株式会社(クラボウ)の旧倉敷本社工場の原綿倉庫を改造した資料館で、建物は近代化産業遺産に指定されています。
明治から平成に至るクラボウの歴史に関する資料が展示されていました。

倉敷紡績は、明治維新後の倉敷の衰退に危機感を感じた大橋澤三郎、小松原慶太郎、木村利太郎という3人の若者の働きかけによって、資産家の大原孝四郎らが出資して設立されました。
その後、大原孝四郎の後を継いで彼の三男である大原孫三郎が社長となります。

様々な資料を見ていくと、大原孫三郎は倉敷紡績の社長として会社を発展させただけではなく、多大な社会貢献もしていることがわかります。

大原孫三郎は18歳で上京して東京専門学校に入学しますが、放蕩三昧の生活を続け大きな借金まで作ったので父親に連れ戻され謹慎させられます。
その謹慎中に石井十次という人物と出会います。石井は岡山医学校の医学生でしたが孤児救済に生涯を捧げることを決意して、岡山孤児院を作っていました。孫三郎は彼に活動に感銘を受けて、社会福祉事業に目覚めます。以後孫三郎は石井の孤児救済を支援し続けることになります。

そして謹慎が解かれて孫三郎は倉敷紡績に入社しますが、すぐさま工員の教育のため職工教育部を設立。工場内に尋常小学校を設立したり、倉敷商業補習学校を設立し、働きながら学べる環境も整えます。また学びたくても資金のない人のために大原奨学会の育英事業を立ち上げ支援しています。

実は大原美術館のコレクション収集は、孫三郎が生涯支援し続けた児島虎次郎という洋画家が当たっていますが、彼も大原奨学会の奨学生でした。

さらに万年床で衛生的にも問題のあった工員の寄宿舎を巨額を投じて分散式寄宿舎というものに変えたり、駐在の医師を置いたり、託児所を用意したり、当時としては画期的な施策を次々と繰り出しています。
後には倉紡中央病院を設立し、従業員だけではなく地域住民の健康にも取り組んでいます。

この他にも、大原奨農会農業研究所、大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所を設立。一流の学者を集めて様々な社会の問題を解決しようと努力しました。

大原孫三郎の一生を通じて、お金はどう使うべきなのかを學べると思います。
孫三郎は裕福な資産家の家に生まれ、父親の後を継いで順調に成長していた会社の社長となりました。二代目のボンボンです。
叩き上げで苦労して築き上げたわけではありません。ボンボンが会社を潰すという話は、歴史的にも数多くある話です。
しかし彼がいわゆる馬鹿旦那にならなかったのは、自分に与えられたお金を自分のためではなく人のために使うという精神を持ったからだと思います。
その精神を持って企業活動にも社会貢献活動にも取り組んだことで、社会にとって必要とされる存在になった、だからその後も発展した。そう思えるのです。

自分で稼いだお金は自分だけの力で稼いだわけではありません。
自分の周りのお陰です。
自分が稼いだお金を、社会から託されたお金として捉えてみると、そのお金がさらに活きて活躍してくれるように思います。

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