【詩」 動物としての「魚」。肉としての「魚」。

昔も今も水族館が好きである。
都内だとソラマチのすみだ水族館、池袋のサンシャイン水族館、葛西臨海公園あたりがいい。
イルカを見たいな、と思えばアクアパーク品川。
値段なら圧倒的に葛西臨海公園。
でも全体的な評価としては都内ならすみだ水族館が頭一つ抜けている気がする。
都内は沢山魚が見れるから環境に恵まれていると思う。

魚が好きなのである。
あのフォルムが好きである。
特にアジ、イワシあたりの細長い、無駄のないフォルムがあまりにも美しい。
これに羽をつけるという子供達の夢を叶えたようなフォルムをもったトビウオはもはや神である。あるいは神に仕えるワダツミの遣いだろう。
リュウグウノツカイなんて魚がいるのだから、僕が初めて見つけたのならワダツミノツカイというかっこいい名前にしてあげたかった。
もっとも飛ぶ魚、𩹉(トビウオ)というあまりに無駄のない素敵な名前だからやはり非の打ち所がない魚である。改名する必要はない。
いや、打ち所があった。
トビウオはなかなか水族館では見れないのである…。

さてさて、そんな名前も外見も好きな、もはや恋してるといってもいい魚に対して、一時期好きすぎて食べられなくなってしまったことがある。

やはり小学生の低学年だったと思う。
静岡の伊豆に行ったとき、アジの活け造りを食べる機会があった。
アジは首と尾っぽを突き刺さした竹串によって、その綺麗な体を皿がわりにされていた。
その器には赤と白の絵の具を混ぜたような白身が丁寧に盛られ、ところどころが銀色に輝いていた。

なんというか、命を感じたのだと思う。
あまりに新鮮で、きっとさっきまで元気に生きていたのに、人間の都合で殺される。
可哀想だった。
可哀想だから食べられなくなってしまった。
それからは焼き魚のような魚の形を成している料理が食べられなくなった。
幸い給食はつみれとか、姿が別のものになっている物ばかりだから食べられたが、でもシラスとかが出てくるとやっぱり食べられなかった。
スーパーの鮮魚コーナーも苦手になった。
そこには死が蔓延していてとてもじゃないが近づけなかった。

もっとも、魚を食べなくなった分結局牛鳥豚の肉を食べていた。
これらは全く嫌いにはならなかった。
おそらくだが、例えば牛なら動物としての「牛」と肉としての「牛」にはっきりと分けられている。
活け造りや焼き魚といった、魚の形を成した料理は動物としての「魚」と肉としての「魚」が混ざり合って出来た芸術なのだと思う。
あの頃、僕にはそれが理解出来なかったというだけである。

じゃあそれから食べられなくなって苦しんだかというと、解決するまでにそう時間はかからなかった。
牛鳥豚だけ食べていたら飽きてしまった。それだけだった。

トラウマにならなくてよかった。魚が好きでいれてよかった。
それと同時に飽きだけで克服してしまった自分に呆れるし、冷酷だなと感じる。
でも今は魚に対して苦手は全くない。魚という生き物の料理も名前も漢字も形もあますことなく好きである。

今では水族館で平気で「あのマグロ美味しそう…」とか言ってる。
こうやって振り返ってみると自分の悲劇を繰り返さないためにも子供の前では控えないといけないと感じる。そもそも子供がいなくてもそんな発言をするな。

折角の機会だからトビウオの活け造りはないのかと思ってsafariで調べた。
本当にかっこいいから皆に見てほしい。
まさに芸術である。

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