己の業の深さよ
11月11日。神社に行った。
1の並ぶ日は縁起がいいからと、父が車で連れ出してくれた。
今日行った大国魂神社は、東京にある5つの有名な神社のうちの1つらしい。
駐車場に入る時点で大きな鳥居を車ごと潜ったので、遠慮なく境内には横の入り口から入った。
そこから本堂にお参りする前に、手を洗いに行こうと舗装されていない道に入った。
そこにあったのが玉砂利だ。
玉砂利をご存知だろうか。
神社に行くとだいたい道に敷き詰めてあるちょっと大きめの石達だ。
白かったり黒かったりする。
今日のものは黒かった。
その玉砂利の上をザックザックと歩いていくのだが、父親はスタスタ歩いていくのにわたしは足が深く沈んでなかなか進めない。
父親とわたしの違いは1つ。そう、体重である。
体の重さで玉砂利に足を取られているのである。
ああ、この足のはまり方、沈み方、これはわたしの業の深さだ。
なんでもかんでも食べ、ぶくぶくと太ったわたしの業の深さがこの差をうんでいるんだ。
そう思うと悲しくて、痩せようと改めて決意した。
玉砂利がどうして神社に敷かれているのか調べてみた。
玉砂利の「玉」は「魂」「霊」「御霊」の意味があり、美しいものとか大切なものという意味があるそうだ。
参拝客の足元を汚さないようにしたり、草が生えにくいようにしたりという実用的な面と、神聖な場所を清浄にするために敷き詰めれているという日本古来の考え方も併せ持っている。
砂利といえば日本の国歌に出てくる「さざれ石」を思い出す人も多いのではないだろうか。
砂利というのは細かい石、つまり「細石(さざれいし)」からきている。
玉砂利というのは実に素敵な名前なのである。
そう考えるとわたしの業の深さで沈む玉砂利は、神社において相応しい啓示だったのかもしれない。
これから痩せないといけないよという啓示。
その通りである。
そう考えながら帰り道また同じ玉砂利の上を歩いた。
今度は父親が歩いていた方を歩いた。
沈まなかった。
わたしがさっき歩いた所と、父親が歩いた所では石の敷き詰められ具合が違ったみたいだ。
なーんだ、よかった。
その夜は担々麺とチャーハンを食べた。
非常に満足。