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11月9日は、大政奉還が行われる&119番の日&太陽暦採用記念日&ベルリンの壁が崩壊&運命の日(ドイツ)&タピオカの日

【大政奉還が行われる】

江戸幕府・第15代将軍・徳川慶喜が、明治天皇に政権返上の旨を奏上した大政奉還が、1867年11月9日(旧暦:慶応3年10月14日)に、京都の二条城でなされました。

《大政奉還時のかんたんな背景》
諸藩の力が強くなり幕府の力が衰え始めていた当時、諸外国からの船の往来も一気に増えていました。

特に、諸外国への対応が二転三転していた幕府の及び腰を見ていた有力者たちの間では、幕府を倒そうという倒幕の機運が強まっていました。

それまで幕府によって煮え湯を飲まされ、裏切られ、虐げられていた、朝廷内部:岩倉具視ら、薩摩藩:西郷隆盛・大久保利通ら、長州藩:木戸孝允(桂小五郎)ら は、武力によって何としてでも徳川家を滅ぼし、政権を朝廷に戻すことを念頭に暗躍し、息巻いていました。

とは別に、同じ倒幕思想でも、土佐藩:坂本龍馬らは、今内戦していては欧米諸国につけ込まれ、植民地化されるから、薩長が武力倒幕を断行する前に政権を朝廷にお返ししてほしいと、戦いをしない倒幕構想を描いていて、幕府に上申していました。

これを知った武力倒幕派は、どうせ徳川慶喜は政権を朝廷に返さないだろうと予想し、もし朝廷に政権を返さなければ、朝廷の意向に逆らうような態度をとる幕府を武力によって討つ絶好の機会を得られると、時勢を読んでいました。

《徳川慶喜による大政奉還の思惑》
しかし、徳川慶喜は、あっさりと朝廷に政権を返還し、徳川家として約265年も続いた政権トップの座を放棄する判断を行いました。

徳川慶喜による大政奉還は、幕府への反感を反らし、且つ朝廷に逆らわず、従順さを示すもので、武力倒幕を現実視していた岩倉具視をはじめとした一部朝廷や薩長藩は、徳川慶喜の予想外の行動に、振り上げた拳を下ろす機会を失うかたちとなり、さらなる煮え湯を飲まされることとなりました。

徳川慶喜があっさりと大政奉還に応じたのは、諸外国からの圧力を憂慮し、日本全体の大事を優先したとの見方がある一方、一説には、徳川家は財産や領地など圧倒的に所有しているし、どうせ朝廷には何もできないだろうから、政権を朝廷に返したところで、すぐにまた泣きついてくるだろうとの思惑があったとする見方が多めです。

徳川幕府が政権を朝廷に返還した大政奉還によって、周囲の望み通り諸問題も解決とはならず、結果的に、さらなる煮え湯を飲まされることとなった岩倉具視や薩長は、さらなる対抗措置を講じる流れとなり、争いは水面下で続きながら、時代は激動の明治期へと移行していきました。


【119番の日】

消防や救急を呼び出す電話番号が「119番」なことから、「119」を11月9日と見立てて、当時の自治省(現:総務省)が記念日に制定しています。

防火、防災の意識を高めてもらうことが目的とされていて、例年11月9日からの1週間は、「秋の全国火災予防運動期間」として、火災予防に関する取り組みや、各種呼びかけ運動が行われています。

《「火の用心」の由来》
防火予防で拍子木(ひょうしぎ)を打ちながら、掛け声として言われる「火の用心」という言葉は、戦国時代の頃から使われいて、徳川家康の家臣だった本田重次(本田作左衛門[さくざえもん])が、妻に宛てた手紙の中に「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」と記載されているのが始まりとされています。

手紙の意訳:親愛なる妻へ、火の元に気をつけて、火事を起こさず、息子の仙千代を大事にして、馬の世話も頼んだよ。

当時の家屋は木材で、密集した造りだったこともあり、各地で火事も多かったことから、上記手紙の「火の用心」という文句が広まり、世間一般にも知られるようになったとされています。

とは別に、本多重次の手紙は、火の用心の言葉が入っていただけでなく、現存する史料の中で、日本で1番短い手紙としても、注目を集めています。


【太陽暦採用記念日】

1872(明治5)年11月9日、明治政府が、それまでの太陽太陰暦(=天保暦)をやめ、新暦の太陽暦を採用する詔書を布告したことにちなんで、記念日が制定されています。

太陽暦の採用により、旧暦:太陰暦の明治5年12月2日が、新暦:太陽暦だと1872年12月31日にあたるため、1872(明治5)年12月2日の翌日は、1873(明治6)年1月1日にする調整がなされました。

そのため、日本においては、1872(明治5)年12月3日〜1872(明治5)年12月30日までの28日間は、実質的に存在しないことになっています。

また、今日、世界の多くの国で採用されているグレゴリオ暦は、太陽暦の一種と位置づけられています。


【ベルリンの壁が崩壊】

1989(平成元)年11月9日、東ドイツ内の西ベルリンを囲んでいた、通称ベルリンの壁が取り壊されました。

《超簡易的背景と経緯》
第二次世界大戦の敗戦により、ドイツは大きく分けて、西ドイツ:アメリカ・イギリスなどの連合国、東ドイツ:ソ連に分断され、各戦勝国が支援する状況でした。

が、東ドイツに位置していたベルリンは、ベルリン地域だけ、さらに東西に分かれて統治されていました。

そんな状況下で、ドイツ全体の内政も苦しい中、東ドイツは、さらに経済環境等が悪化していき、東ドイツで唯一連合国領だった、西ベルリンへ移住する者が後を絶たない事態に。

移住を防ぐため、西ベルリンを取り囲むように作られた壁が、後にベルリンの壁と呼ばれるようになりました。

壁ができた後も、東ドイツ情勢のさらなる悪化が原因となり、再びドイツをひとつに統一することで、東西両ドイツが合意に至りました。

この合意がニュースとなり、公表されたことで、1989(平成元)年11月9日、一般市民によって、西ベルリンを囲んでいた壁が打ち崩されていきました。

東西ドイツの統一や、東欧の国々の民主化は、アメリカとソ連が、冷戦を終結するひとつのきっかけにもなったと目されています。

そして、この日は、ベルリンの壁崩壊の日として、記念日に制定されています。


【運命の日(ドイツ)】

ドイツの20世紀史上、政治的ないくつかの重大事件が、11月9日に起こっていることから、特異な日として、ドイツ国内で記念日が設けられています。

《主な出来事》
「ウイーン十月蜂起」に参加したロベルト・ブルームが処刑:1848(嘉永元)年11月9日

ドイツ革命勃発:1918(大正7)年11月9日

「ミュンヘン一揆」の鎮圧:1923(大正12)年11月9日

水晶の夜:1938(昭和13)年11月9日:反ユダヤに対する襲撃・迫害事件

ベルリンの壁崩壊:1989(平成元)年11月9日

他、奇しくも日付は、11月9日で一致しています。


【タピオカの日】

台湾で人気のあった珍珠奶茶(タピオカミルクティー)が、2002(平成14)年11月に、日本で初めてチルドカップ容器として製造販売されたことと、当時の販売されていた商品名が「Q-PON(キューポン)」と呼ばれたことから、Q(9)-PONの語呂合わせにちなんで、タピオカ入り飲料をはじめとした各種食品関連事業をを展開している安曇野食品工房株式会社が、11月9日に記念日を制定しています。

タピオカミルクティーは、高糖度でハイカロリーな飲み物とされていますが、タピオカの原材料のキャッサバ自体は低カロリーで、ミルクティーが高カロリーだったり、タピオカミルクティーにする際に、キャッサバを砂糖漬けにすることから、高カロリーになる傾向にあります。

また、売られている国や地域でも、カロリーには違いがあり、例えば、タイ国内で販売されるタピオカミルクティーには、多いもので3gのスティックシュガーが、約24本分入っている場合もあるそうです。

しかし、日本のコンビニやショップ店で販売されているタピオカミルクティーは、1杯約150kcal〜のものも多数登場していて、タイや諸外国に比べれば、カロリーは割と控えめです。


(以上、ネット検索より)

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