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誕生日

末の子の誕生日
28歳

3人の子ども達
生まれて来てくれて「ありがとう」
その思いは伝え続けてる
言わなきゃわからないもんね

グループホームから帰省し
僕、誕生日やでと
小さなケーキを買いお祝いをした

3歳児健診で発達に問題があることがわかった
大人しい子で
上二人がいたので、ゆっくりなんだと思ってた
2歳から保育所に行ってたので
何かあれば言ってくれるだろうとか思ってた

健診で保健師、医師から
「 お母さん、あきらめてください
  勉強もスポーツもできません
  学校に行っても給食を食べに行くだけです
  お母さんが発達を遅らせたんです」
そこから療育が始まった

元夫、姑からは
「 お前のせいや、お前の責任でやれ」
「 うちの兄ちゃんは関係ない、あんたの責任や」
そんなことを言われた
その当時は、涙に明け暮れてたから
さらに、悲しみに明け暮れた
今はハッキリ言える
  
  一人で妊娠できない
  子どもの問題はどちらか一方ではなく
  両親の責任

何とか気持ちを立て直し
腹をくくり
育ててきた

しんどかった
ずっと、しんどかった

小学校に入学した時
目指す目標は定まった
私の使命として取り組んだ
●自立させる
●給料が安くても働ける子にする
●お姉ちゃん二人のお荷物にしない

育った家庭が不安定だったから
早く家を出たくて
自立心が強く、以降金銭的にも親に頼ったことはない
自立の道筋はわかってた

小学校2年生くらいから親の工場を手伝ってたから
働くことに必要な力もわかってた

5つ下の弟が生まれてから世話役で
小学校下校後は子守り
友達と遊びに行く約束も
今思えばわけのわからない理由で引き留められ
結局、あきらめ、遊びに行けなかった
夏休みなど長期休みの部活も
自営の工場の手伝い、銀行周りなど使われ
休みが続いたり、ユニフォームとかお金が必要になると
金はない!と…辞めることになる
そんな、子ども時代の自由を家の事情で奪われる気持ちは
苦しいほどわかるので
お姉ちゃん二人の人生の時間を弟の世話で失わせない!
その思いは強かった

あらゆることをした
いろんな先生の講演に行き相談にも通った
精神科や言語リハビリにも長く通った
同時に通院していた人達は
「何にも変わらないから」と早期に中断しても
1人「終わりです」と言われるまで通った

厳しくした

いろんなことが起きた

いろんな出会いがあった


2年前 重度知的障害で一般就労できた

納税者になった


誕生日を祝いながら
こんな日が来るなんて

本人も頑張った

私も頑張った

私が、居なくなっても
生活できることを目指す支援はまだ続く
今までみたいに必死にならなくていい
ゆっくり、じっくり、確実に力をつけていく
お姉ちゃんの出番がなくなるくらいまで仕上げていく

こんな、これまでの取組みも
綴っていこうかなと思います
ボリュームあるので
どうやって…と構想中


これからは
自分を喜ばす支援を一番にしていきます(^^♪




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