嘘の素肌「第20話」
三鷹にある自宅の一室で和弥は死んだ。タコ足配線用の延長コードで首とクローゼットパイプを結び、大量の睡眠導入剤を焼酎で服用し自殺した。遺体が警察に引き渡されたのは自殺実行から推定三日後の朝で、梢江が第一発見者だった。糞尿を垂れ流し、虫が湧いた状態の和弥を警察へ通報した梢江は事情聴取を兼ねて警察署へ同行し、数時間後に重要関係者として僕が、それから芳乃家の両親が三鷹警察署へと呼び出された。和弥の遺体は検視に回されたが、証言の数々から明らかに自殺であるとされ、事件性はないと判断された。
取り調べの最中に僕が何を話したのか、あまり記憶がなかった。ただ漠然と、警察官から問われる質疑に応答した。嘘は何一つ言わなかった。僕が殺してしまった気がしたから、それもちゃんと伝えた。「お気持ちお察しします」警察官は聞く耳を持たなかった。
約三十分の聴取と念の為の指紋採取を終え警察署を追い出された僕は、周辺区域にあったチェーンの喫茶店にひとまず入った。正午ぴったり。日曜の昼間という賑やかさが、僕の気を滅入らせる。一名だと店員に伝え席へ案内される途中、何やら便箋を開いたままじっとしている聴取終わりの梢江を発見した。僕は店員に「やっぱり相席で」と告げ、梢江が居るテーブル席を差し、彼女の正面に腰を下ろしてからブレンドを注文した。
対面して、運ばれてきた珈琲が完全に冷め切るまで、僕らは一言も言葉を交わさなかった。梢江は飽きもせず便箋を眺めていたし、僕は窓際席だったことを理由に、代わり映えせず続く日常の風景を傍観していた。ふと、歩道を歩く親子が目に留まる。未だ二十代であろう若い母親の左手を握りながら、トボトボ歩く幼稚園生くらいの少年。少年が立ち止まり、アスファルトの上で何やら駄々を捏ね始めた。母親がしゃがんで少年に目線を合わせ、傾聴するような素振りで両手を握っている。僕の席からはほとんど少年の背中しか見えないし、会話の内容も聞こえない。ぐずっている少年の頭を撫でた母親が、立ち上がって少し先へ進み、振り返りながら再び左手を差し出す。優しい笑みだった。少年は小走りで母親の元へ近づいて、その手を掴む。そして二人は、同じペースで歩いていく。死ねと思った。
「男の子だったら、スポーツをやらせてると思うな」
僕と同じくその親子を見つめていた梢江が言った。
「そうは言っても私、性別が判明する前に堕したからさ。会いに行ってみないと、男の子か女の子かも、わかんないんだけどね」
僕は何も言わず、冷めた珈琲を一口啜る。酸味ばかりが際立って美味しくなかった。
「でも、たとえ生まれた子が男女どちらであっても共通して言えることがある。どんなにやりたがっても、絵の道だけは進ませないってこと」
「勝手だな、君は」
鼻で笑うしか、今はできなかった。
「私のこと、嫌いになった?」
「どうして」
「色々」
俯いていた顔を上げ梢江を視たが、焦点が合わず相貌は暈けている。
「ちゃんと言いなよ」
「嘘をついてたから」
「嘘ついてたんだ」
「ごめんなさい。でも、本当だったこともあるの」
「例えば?」
「私がヒヤマリのこと、愛してること」
「理解できないね」
「うん、そうだよね」
「説明ぐらいは、してくれよ」
「聴きたいの?」
「別に」
「じゃあなんで」
「和弥の親友として、一応」
押し黙った梢江が深呼吸を挟む。ゆっくりと吐き出される細く永い息によって、僕の手元に置かれた珈琲の表面に小さな波が立った。
「検視はされるけど司法解剖に回されたりはしないだろうから、お通夜もすぐにできると思う。その時は、私の分までちゃんと行ってね。それを約束してくれるなら、全部話す。和弥からは口留めされてたけど、話すよ」
「梢江は行かないの」
「行けないよ。きっと」
清々しいほどの快晴。雲一つない陽光の照射が、窓越しにアスファルトの粒子を輝かせている。
「和弥とはね、三年前に再会したの」
音が鈍くなった。膿が詰まっているような痛みが耳朶を染める。できる限り困惑が見透かされないよう、僕も科を作って口角を緩めた。
「和弥が行きつけてたバーで、ほんとに偶然だった。最初、気づいたのは彼の方だった。こんなに整形して見た目を変えた私なのに、和弥は私が入店して、隣のカウンターに座ってすぐ『もしかして、梓澤梢江さん?』って言ってきたの。最初は違うって答えようと思ったけど、なんでかその日は昔の私を話したい日でね。どうしてわかったのか訊いたら、『昔好きだった女の子のこと、忘れたりできるような男じゃないから』って恥ずかしそうに言われた。その夜から、私達は打ち解けたんだ。理由はシンプル、お互いに希死念慮があって、死にたい気持ちを赦してくれる存在だったから。
私は中絶をきっかけに学んだ自殺学について、和弥はメメント・モリを意識する上で蓄えた芸術的教養として、二人、不謹慎な自殺論を毎晩のように交わすことで急激に仲を深めたの。そうやって、私達は頻繁に会うようになった。でもね、貴方にならわかると思うけど、和弥は私と恋をしたいわけじゃなかったの。和弥って、そういう男でしょ。勿論私だって、今更誰かと恋なんてできる身分じゃないとわかってたから、ありきたりな枠に落とし込もうとせず、純粋に今を楽しんでくれる和弥との時間が特別だった。本来別々であるはずの死にたい夜が、万が一同じタイミングできたら、その時は一緒に死のうって約束だけをして、まあ共依存だよね。とにかく、それくらいしか当時の私達に救いはなかったの。もしも私が死のうとしても、それを止めたり、後を追ったりするのはナンセンスだからやめようって誓ってくれる男の人なんて、何処を探しても和弥くらいだと思ったから。気が向いたら心中だねって。それくらいの軽さが私達の性にあってたんだ。
和弥が二十五歳の時、私にね、『俺はニルヴァーナのカート・コバーンに倣って、二十七歳で死ぬつもりだ』って言ってきたことがあった。『ただし、二十七で俺の絵が売れたり、何かの賞を獲ったり、誰かに作品が必要とされてたり、絵で飯が食えてたら、悪いけど死んだりはしない。この世界で俺にできることがあるのに、それを放り出して死んでる暇もねえからな』表現者でもクリエイターでもない私からしたら、その二十七の基準がどれだけ重要かなんてわからなかったけどね。見届けてあげようと思った。彼の苦悩も、軌跡も全部。夜職続けてて、お金だけはあったから、いわば私は和弥のパトロンとして生活を援助してる面もあった。彼が望んだわけではなく、私がそうしたいから、支えてたんだけどね。
この二年間は、和弥にとって正真正銘、命懸けの二年だった。生死をチップに変換した博打創作。傍で視てると苦しそうだったけど、和弥自身は楽しいって、スリルがあるって。あの人、多分正真正銘のフィロバッドだったからさ。私なんかより、うんと。
でも、そんなフィロバッド男にも、心残りがあった。桧山茉莉という親友のこと。好きなように描いて、生きて、描いて、死ぬ。本来はそれで満足なはずなのに、彼の両義性は自分の死後に発生するであろう、親友の悲しみを無視することはできなかった。自分が死ぬことで与える影響を考える、いや、考えすぎる珍しいタイプの自殺志願者だったから。死にたいくせに、死んだらようやく楽になれるくせに、死んだ後のことまで考えてる。ほんと、お節介だよね、和弥は。それで、白羽の矢が私に立ったの。『俺の願いは梢江ちゃんにしか理解できないだろうし、頼んだりもできないんだ』って。
一緒に居ると、和弥は事あるごとに茉莉の話をした。私が女としてちょっと自信失くすくらい、ああ、和弥にとって一番大切なのは茉莉なんだろうなって、敗北感じるくらい茉莉のことばっかりだったよ。私としても、茉莉は告白までした相手だからさ。感傷的な気分で聴いてたら、和弥ってば『俺が死んだら、俺の役割を梢江ちゃんにやって欲しい』とか言い出してね。無理に決まってるじゃんか。私が和弥の代わりになれるわけない。茉莉と和弥の間柄をそこまで軽視してなかったし、私だっていつ死ぬかわからないのに、そんなの自分勝手過ぎるって、大喧嘩した。でも、当時の和弥は私より確実に死に近づいてた。だから、そんな人の願いを、私からすれば最愛と呼べる人の頼みを無下にはできなかったの。それに、もうできるだけ苦しまないで欲しかった。わかるから。大切な人を悲しませたくないけど、死ぬしか術がない気持ち、すごく理解できたから。私は和弥を、心から愛してたからさ。和弥だって、最低な自覚はあったと思う。私達はこれから共犯として、ひとりの人間を騙すんだから。それでもね、和弥は言ってたの。『茉莉をひとりにしたら、何をしでかすかわからない奴だから。でも、誰かが傍に居れば、アイツは間違わないでいられる』って。だったらお前が生きろよって、さすがに言いそうになったけどね。あの芳乃和弥にそれを言えるほど私も馬鹿じゃなかったから、頷いたんだ。彼の提案に。
私さ、立ちんぼしたのは最初の一か月だけで、それからはちゃんとお店で働いてるんだ。売春婦には違いないけどね。あの日、大久保公園の外れで私を発見してくれた日、本来和弥の指示では、もっとメインの通りで立ってるつもりだった。でも、あそこにいたら男から散々声掛けられて、嫌になってありえない場所に逃げたの。あんなパーキング前の電柱で待ち伏せる立ちんぼ、いるわけないよね。和弥が上手に演技してくれたから、自然な感じで流れに乗れたけど、まあ二人とも、結構酔ってたし」
だからあの夜、和弥は僕が別の女を呼ぶことを頑なに断っていたのだ。目的があった。新宿へ僕を呼び出したのも、瑠菜への祝儀を渡す為ではなく、最初から梢江と僕を引き合わせる為だったのだ。
「当初、私は和弥の言う通りにするだけで、茉莉への感情は微塵もないままでいいと思ってた。だって和弥が死んだら、私も後を追って死のうと思ってたから。和弥が生きてる間だけ、和弥を安心させて、そのあとは約束だって破ってやろうって。でもさ、茉莉と関わって、貴方の弱さと壊れている部分に触れて、私の中で和弥に対する感情とはまた別の気持ちが沸いたの。人間に対して初めて、『生きてていいんだよ』って言ってあげたくなった。死にたい人ではないのに、貴方が私や和弥よりも、いきなり死にそうに視える時があった。不安だった。怖かった。和弥にはない寂寥みたいなのがずっと漂ってて、ひとりにしたくなかった。
私はそういうことも和弥に包み隠さず話してたの。もしかしたら本当に、私は茉莉を愛しているかもしれないって。和弥ね、喜んでた。泣いて喜んでたよ。『これで俺が死んでも、茉莉は大丈夫だなあ』って、本気で言ってた。ねえ、そんな人いると思う? 和弥だって私の事を大切にしてくれてたのに、茉莉くんへ心変わりした私に拍手を送れるんだよ? やっぱりおかしいんだよね、和弥は」
「アイツはそういう奴だよ」わからない。「昔から」
「それで、十一月に和弥が二十七歳になって、ああ、いつ死んじゃうのかなってずっと考えてて、三日も和弥から連絡が返ってこないことはこれまでになかったから、今日の始発で彼の家に行ったら、ちゃんと死んでたんだ」
「ちゃんと?」やめておけ。突っかかる必要はないとわかってる。『最愛』である和弥の腐敗し始めた遺体を発見した梢江の感情を想像すれば、誰よりも苦しいのは梢江のはずだ。僕が血相を変えて彼女に罵詈雑言をぶつけたところで、ただ梢江を傷つけて終わってしまう。そんなことは、わかっているのに。「おい、ちゃんとって、どういう意味だよ」
「和弥がいったように、二十七歳で死ぬってこと」
「それがちゃんと、なのか。梢江は和弥の希死念慮を、その命のリミットを知りながらも放置して、親友である僕にも言わず、死んでいく和弥を黙って見過ごした、その行為が、それがちゃんとってわけだとしたら、そんな、人殺しみたいな、あのさ、一回冷静になってくれよ、ちゃんとっておかしいぞ、だって、もう、」もう、言葉なんてまとまるわけがない。「お前、自分が何やったか、わかってんのか」
「うん。だから、私が見殺しにしたと言われたら、そうなるんだと思う」
「冷静になってんじゃねえよ。最愛? が死んでもそんな態度って、どうかしてるんじゃないのか。それともあれか、薄情なだけか。軽々しい気持ちで和弥の命を弄びやがって」梢江を責める理由はないのに、僕はもう、僕を止める術を見失っている。無駄な白紙を吐き出すインク切れに気づけないプリンターのように、意味のない行為がノイズと共に溢れ出てくる。「なんだよその目、僕が間違ってるって言いたいのか」
否、梢江の瞳は、既に僕を視てなどいない。喫茶店を越えて、僕の背面方向にあった、三鷹警察署の奥、和弥が安置されている場所だけを、きっと視ていた。
「茉莉は正しいよ」
「じゃあなんで」
「正しすぎるから、寂しいんだよ」
正しくあれば、救える命があると思っていたのに。
「茉莉、私ね、」
「五月蠅いんだよ」どうしてこうなった。誰がいけなかった。何が悪だった。僕はなんだ。僕に何ができた。僕が何をしてしまった。僕は何に怒っている。梢江と和弥ができていたから。梢江が澄ました顔をしているから。和弥が親友なのに打ち明けてくれなかったから。僕だけ仲間外れにされていたから。わからない。和弥はどうして死んだ。一つもわかりやしない。僕はどうして生きている。僕は誰だ。一体何者なんだ。「別に聴きたくない」
「ねえ、あのさ」
「聴きたくないって言ってんだろ!」
机を叩きつけ怒声を浴びせる。梢江は飛沫する唾にも怯まず、「ごめん」と零した。周囲の客や従業員の視線が一瞬だけ集まったが、そんなことは造作もない事実で、僕は恥すら覚えなかった。僕と梢江を煽るような、邪魔をするような奴がいれば殺してやろうと思った。
「二つだけ、いいかな」
堂に入った梢江が訊ねてきて、僕は頷く。
「一つは、これを貴方に預けようと思って」梢江がずっと読んでいた薄紫の便箋が、僕へと手渡される。四枚分にびっちり詰まった、和弥のお世辞にも上手いとは言えない字。「私より、きっとヒヤマリが持つべきだと思う。それにこの遺書、きっと貴方に向けて書いたものだろうし」
「なあ、死ぬ気か」
梢江は首を縦にも横にも振らず、「わからないの」と答えた。
「でも、これまでみたいに貴方とは一緒に居られない。和弥が死んだらそうしようって、ずっと考えてはいたから。勝手だけど、ごめんなさい。一人になりたいの」
「勝手だね」僕も今は一人になりたかった。「別に僕の人生には梢江なんて人、最初からいなかったんだから、いなくなったところで平気だよ」
「そうだね。うん」涙を溜めて唇を縛る梢江。どうして泣くのだ。お前は僕を和弥と一緒に騙していた側だろうに。最近、僕の周りにいる人間は泣いてばかりだった。瑠菜にしろ和弥にしろ、梢江のように美しい涙を流す。それで何が解決した? 涙が正解までの糧となったことがあるのか? 貪婪な涙。静謐な涙。僕にはどちらも流せない。ただ、濡れていることばかり意識して、渇きを畏れているのなら、やむを得ないとも思えた。僕が雨に縋るように、彼女らは涙に縋っているだけなのだから。「ごめんなさい、ほんとに、ごめんなさい」
「別にいいんだよ、謝らなくて」
「ねえ、茉莉」そうやって、僕を呼び掛けてから話す癖。ああ、君は似ているんだろうな、和弥に。「その『別に』って口癖、やめにしなよ。余計なお世話かもしれないけど、もう一つ言いたかったことはそれだよ。『別に』って言葉に殺されちゃう前に、ね」
袖で涙を拭った梢江が頭を下げ、二千円を置いて喫茶店を出て行った。
それから遺書を何回か読みながら珈琲を飲み干し、午後三時には僕も店内を後にした。疲弊しきった状態でスマートフォンを確認すると、瑠菜と芳乃母から連絡が入っていた。僕はその両方を無視し、麻奈美さんに電話をかけた。永遠に続きそうな快晴が、僕を嘲笑っているみたいだった。勿論彼女は、何度かけても出ない。それはそうだ。麻奈美さんは僕からのプライベートな連絡を返さないし、雨が降らなければ会ってもくれない。でも、縋るしかなかった。あと一回、もう、あと一回だけと、エンドレスに鳴らす着信。十数回かけて、ようやく麻奈美さんが応答した。「ごめん今病院。どうしたのよ」僕はただ、今晩どうしても会いたいと一言告げた。体感一分くらいの間があって、麻奈美さんから「いつもの店、二十二時に」とだけ言われ、電話を切られた。
悠太君の面会日で、晴天の今日。もしかすると、約束の場所に麻奈美さんはいないかもしれない。彼女の良いところは制約を守り抜くところだから。そんな消極的な気持ちで店内へ足を踏み入れると、麻奈美さんは卓上に一杯の空グラスを置きながら、何やら文庫本を開いて僕を待っていた。
個室に上がった僕を上目遣う彼女が、
「最初で最後のルール違反だよ。桧山くん」
そう言いながら、鞄を抱えて立ち上がった。麻奈美さんはスタッフにハイボール一杯で勘定することを謝罪し、僕を連れて店を出た。予め呼んでいたであろうタクシーに詰め込まれ、彼女はホテルまでの住所をドライバーに告げた。