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嘘の素肌「第35話」

 自殺対策基本法第五条には「国民は、生きることの包括的な支援として自殺対策の重要性に関する理解と関心を深めるよう努めるものとする。」という文言がある。しかしながら、一般は日常生活において「自殺」という単語そのものを無意識に嫌う習性がある。それは偏に、自殺という事象が自分にも起こりうる可能性がある真実性を、皆本能で感知し、無自覚に回避しているのではないかと僕は考えている。テレビのニュースで集団いじめを苦に自殺した男子高校生を報道した際、視聴者はつけっぱなしの画面に流れ込んだ凄惨な報道内容に胸を痛めるが、その自殺に関心を深めるよう努めたりはしない。本能が危険であると警鐘を鳴らし、追及を拒むのだ。その一方で、SNS上で自殺未遂を匂わす動画が掲載されれば、すぐさま匿名性の高い人間らの手によって拡散され、無差別に広がっていく。そして広がりゆく自殺動画は、ニュースの報道と同様に自殺という事象を取り扱ったメディアであることに変わりはないのに、興味本位で覗きにいく人間によって支持されたりもする。つまり一般は、自ら望んで知りたがる自殺の容には対応できても、突然降り注いできた自殺の容は敬遠する生き物なのだ。自殺動画を拡散するような人間も、肉親や知人が自殺をしたら狼狽え、衰弱しきるのは目にみえている。自殺という最早キャッチーなフレーズは、受動、能動の選別によってその姿形を大きく変化させるのだ。


 銀座三原通りを進みながら、梅雨明けの乾いた空気を食む。正面から歩いてくる手を繋いだ男女が、目の前で右折しスターバッグスリザーブへと吸い込まれていく。恋情をたっぷり含んだ目鼻立ちの良い女と、どことなく誇らしげな男。幸福とは釣り合いが取れた欲求の飽和であると、ああいうカップルを見かける度に痛感する。僕にもあんな表情をしていた時期があったのか記憶を想起してみたが、特別面白くない顔ばかりが浮かんだので止めた。

 この三か月間は比較的大人しく過ごすよう努めた。約束通り村上とは月に一度飲みにも行ったし、瑠菜とは週に二度は顔を合わせるよう心掛けた。せめて瑠菜の前ぐらいは兄でいてやろうと改心したことで、以前に比べ彼女に対して弱さを露呈する機会も減った。瑠菜が僕の虚勢をどう解釈しているかわからないが、僕の絶望で瑠菜を汚す権利などありはしないと自分を叱咤した故の在り方だった。

 いずみとの関係も案外良好で、五月のゴールデンウィークには別府温泉へ旅行に出た。支払いは全ていずみ持ちの、客室露天風呂付きなブルジョワ旅行であったが、いずみが楽しそうに何枚も写真を撮っていたので僕も嬉しかった。刹那とはいえ、あれだけ憎悪が沸き上がった相手を許容できる僕の心も些か不謹慎ではあったが、いずみが週刊誌でバラエティ番組で共演した若手俳優との密会を撮られたことが、ある側面で僕へ安心を与えた。この女はいつか僕を捨てる気でいる。それくらいの軽さがいずみの腹にはあって、僕にはみえない場所で粛々と次の男を準備しているのなら、いずみとの束の間も謳歌すべき日常であると自分を納得させることができた。

 ただ一点、絵を描くことだけはあの三月以来弊害を伴い続けた。村上と再会した晩に絵を描き続ける理由を言及されたことが、自分が果たして絵を描くべきか、疑問を増幅させることに繋がった。意欲的な創作活動には勤しむことができず、松平の依頼のみを描き、それでも頻度は落ち、最低限ビジネスとして成り立つ程度の創作活動で精一杯だった。事情を汲んだ松平が「沈んでる時期もあるでしょ、鬱病なんだから」と笑ってくれたので、少しだけ救われた。厭味のない乾いた松平の微笑みを視ると、彼が不正に金を稼いでいるとは俄かに信じ難い心地にもなった。


 並木通りに店を構えるビストロの前に到着し、右手にぶら下げた紙袋の存在を一瞥した。個室へ案内され、白を基調とした絢爛な店内を進む。天井が高く、シャンデリアが印象的な室内には既に松平といずみの姿があった。椅子を引く前に「お待たせしてすみません。初めてください」とウェイターに告げ、その後で隣に座るいずみと正面の松平に「野暮用が長引いちゃってさ。悪いね」と遅刻を簡単に謝罪した。

「あと一分遅れてたら帰ってたかもなあ」

 機嫌の良い松平に煽られながら、ウェイターがシャンパンを注いだグラスを持った。一礼を挟んで扉からウェイターが離れたことを確認し、いずみが「じゃあ颯馬、三十歳おめでとう」とグラスを傾ける。僕も「おめでとう」と言葉を合わせ、三人でグラスを鳴らす。「俺も三十かあ」松平が柄にもなく照れていて、軽やかな音は縁を介して部屋中に愛らしく響いた。

 今夜はドレスコードがあるので、派手好きな松平ではあるが普段よりも正装に近いフォーマルな恰好をしていた。爪も艶はあるがネイルは施されていないし、伊達眼鏡にチェーンをぶら下げてもいない。清楚に着飾ったシンプルな松平はこうして眺めているとやはり美形で、この甘いマスクがあれば俳優業でもやっていけるのではないかと思わされるほどだった。

「でも松平が三十には到底みえないよ」

「おいおい。桧山に言われたくないよ。お前ホント若いよな」

「そうかな、昔より痩せたからちょっとは老けたと思うけど」

「渋さが出たんだよ」いずみが口を挟む。「色気ってやつね」

「んでも三十二でウルフだもんな、ちょっと若作りが過ぎるぜ」

 アミューズとして出されたアンチョビクリームのサブレを頬張りながら松平が言った。

「いいじゃんか。茉莉はウルフが似合ってるんだから」

「僕、髪染めようかと思ってて」

 思いのほか食いつきが良かったいずみが「いいじゃん、何色?」と問うてくる。既に多様なヘアカラーで遊んでいる松平はあまり興味がなさそうだった。

「うーん、ピンクとか」

 僕以外の二人が噴き出した。

「無理無理、さすがに歳考えてくれ」

「そうだよ。茉莉にピンクはちょっと違うもん」

「だよね。冗談」

 三人の笑声が重なり合った時、僕は咄嗟にデジャヴを覚えた。——「貧乏人はすぐすき焼きを食いたがる」。懐かしい声が脳裡で鳴った。



 穏やかな空気で場が温まり、松平が仔羊のフリットにナイフを通したタイミングで「忘れないうちに渡しちゃおう」といずみは鞄から小さな筒状の箱を取り出した。

「はい、これは私からのプレゼント」

 いずみが選んだのはMONCLERのサングラスだった。フレームは細身の金色で、淡いグレーのカラーレンズ。テンプルに丸いロゴの飾りがついている部分が控えめなお洒落さで、松平のどんな私服にも合いそうなデザインだ。

「どうだ、似合うか」

 ハイブランドのサングラスをかけても阿漕な感じにならないのが松平の強みだろう。「似合うよ、守銭奴感はないよ」と少しだけ鎌を掛けるような感想を僕が述べると、松平は「金に興味ねえからなあ俺」とあっけらかんな風を装った。

「じゃあ僕からも。同じ装飾品になっちゃったけど」

 僕が選んだのはポールスミスのシングルピアスで、切り抜かれたロゴがモチーフになったマット仕上げのブラックカラー。髪色が派手な松平には、このシックな耳飾りが似合うと思って店頭で即決した。

「いやあ、桧山は俺の趣味をよくわかってる。ありがとな」

 サングラスとピアスを装着した松平へ、いずみと声を揃えて再度祝した。はにかんだ松平を横目に、僕も食べやすいサイズに切った仔羊へトリュフと菜の花をのせて口へ放った。最近味覚が鈍感になったせいか、正直ディナーコースの金額に見合うほど旨いとは感じなかった。

「プレゼント貰った礼にってわけじゃないんだけどさ」

 ナイフを置いて水をひと舐めした松平が、僕の方に身体を向ける。

「桧山、ギャラリーに興味ないか?」

「全くないね」

 即答した僕に、「だよなあ」と両手を上げてオーバーなリアクションの松平。「そう言うと思ったよ」

「いきなりなにさ」

「いやあね、俺の知り合いが経営してる割と良いギャラリーがあるんだけど、二月に二週間空きができて、なんか集客見込める画家いないのかって話持ち掛けてきてさ。俺とお前で展示会やった時以来、桧山の作品をファンが生で鑑賞できる機会はなかったろ。それに、今回俺はコマーシャルギャラリー企画画廊にしようと思っててさ。描いてきた絵の保管だって歳月が経てば金がかかるし、ここらで一度勢いよく大方金に変えたって損ないだろ? お前の絵を欲しがってる人はいくらだっているんだから」

「やっぱり守銭奴だったのか」

「ちげえよ、ビジネスマンなの、俺。どうだ。ギャラリストも用意するし、キュレーション企画立案ディーリング作品売買は責任もって俺が担うから、桧山は新しい絵を何枚か描いてくれればいいだけだから。そう、ギャラリーの目玉になるような、『ディスコミュニケーション』とか『赤の時代』に変わる新しいコンセプトの絵をさ」

 松平の勢いに気圧され、「少し考えさせてくれ」とだけ答えた。

 自分の画廊。僕だけでは成立しないであろうコマーシャルギャラリーも、松平の手に掛かればきっと上手くいく。しかし、気が進まない。理由は明確だった。僕のような表現欲の乏しい人間にギャラリーなど、どだい贅沢過ぎる話なのだ。新しいコンセプトの絵など描ける自信はなかったし、何より自分のギャラリーを開催することは、誰よりも和弥が夢見ていたことだった。松平の提案を受け入れることは、和弥に対する侮辱のような気がして、その場ではワインを揺らしながら言葉を濁すことしかできなかった。




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