雲一つ無い夜空。

 深淵の闇の海に浮かぶ満月は美しかった。

 秋の夜風に乗って祭り囃子が聞こえる。

 子供達が脇を駆け抜けていく。

 祭り囃子に惹かれるように、私の足は自然と神社へと向かう。

 私は唇を噛んだ。

 何度この祭りに足を運んだだろう。

 小さい頃、両親に連れてきてもらった。

 幼馴染みの男の子。中学に上がると同時に引っ越していった男の子と、毎年来ていた。

 大きくなると、彼氏とも一緒にも来た。

 ぼんやりと妖しい光を放つ提灯。笑顔を浮かべた人たちは、光に誘われるかのように階段を上って社を目指す。

 楽しい思い出ばかりが詰まっている。

 私は溜息をつきながら、石階段を上り始めた。

 ~~♪ ~~~♪ ~~~~♪

 太鼓や笛の音が聞こえてくる。それに混じり不思議な言葉が聞こえてきた。

 私の横を緑色の水干を来た少年が駆けていく。

 赤い下駄を履き、狐のお面を被った、栗色の髪をした少年だ。

 少年は人混みを縫うように駆け、すぐに見えなくなってしまった。

 私はまた唇を噛む。足下を見ながら、一歩一歩、歩いて行く。

 スーツ姿にハイヒール。誰が見てもこの場に相応しくない格好だ。

 足の小指が痛い。普段余り履き慣れないハイヒールを、一日中履いていたせいだ。

 もう一度溜息をつき、目頭を押さえる。祭り囃子に混じり、ノイズが頭の中に走る。

「何やっているの?」

 それが、声に出ていたかどうかは分からない。目の前で起きている事を理解するのに数秒の時を要したからだ。

 私のベッドで裸で絡み合う男女。

 男は、同棲中の彼氏。

 女は、勤務先の後輩。

 二人は動くのをやめ、こちらを振り返った。

 青ざめる彼氏。

 一瞬、唖然とした表情を浮かべたが、すぐに悪戯が見つかった子供のような笑顔を浮かべる後輩。

「あっ、見つかっちゃった」

 悪びれる風も無く、後輩は彼氏の下から這い出てベッドサイドに腰を下ろした。おもむろに、バックからタバコを取り出し咥える。

 私も彼氏も、タバコは吸わない。なのに、私の部屋には、以前からそこにあったかのように、テーブルの上に灰皿が置かれていた。

「何してるの?」

 声が震えていた。私の声じゃないみたい。

「これは、違うんだ……その……あの……」

 彼氏は何かを言おうとしているが、私は溜息をついてその言葉を止めさせた。

「何してるのって、聞いてるんだけど?」

 私はライターを手にした後輩の手を叩き、咥えたタバコを毟り取った。

「何って、見て分かるでしょう? セックス。先輩、そんなに怒らないでくださいよ。ただ、セックスしていただけじゃ無いですか。彼、先輩のこと好きなんですから、許してやってください」

 昔から話の通じない子だと思っていたが、此処までとは思っていなかった。

 私は後輩の髪を鷲掴みすると、思い切り叩いていた。引っ掻き、また叩く。それを何度か繰り返したところで、彼氏に止められた。

「何してるんだ! 止めろ!」

「止めるのはどっちよ! ここは、私の家なのよ! 家賃を払っているのも、食費を出しているのも、携帯代を出しているのも私! それなのに、何よ! これは!」

「本気じゃないんだ、許してくれ」

「許せるわけ無いでしょう!」

 彼にバックを叩きつけていた。

「出て行って!」

 彼氏の顔が青ざめた。知っている。定職に就いていない彼に、行くところなんてない。

 後輩は私に叩かれたことがショックだったのか、悄然と項垂れている。

 私は大きく息を吸うと、二人に背を向けた。

「いい! 今日は私が出て行くから、明日までに荷物を纏めて出て行って!」

 私は泣きながら走った。何度も転びながら、膝をすりむきながら走り続けて、気がつけば電車に乗っていた。

 彼との出会いは、会社だった。彼は、私の勤務先に派遣で来ていた。

 トキメキは無かった。告白されたから付き合った。彼がどんな人かも知らなかった。

 彼の雰囲気は、幼馴染みにどこか似ていたからだと思う。

 付き合ったのは、それだけの理由だ。

 彼が派遣先に戻されると同時に、私たちは同棲を始めた。

 理由は明白だった。彼の収入が無くなったから。ただそれだけの理由で住み始めた。

 私は彼の生活費、ほぼ全てを工面していた。

 家でゴロゴロしていた彼を見ても、私は何も感じなかった。

 愛していたから、ではない。

 私がいないとこの人は駄目だ。そう思っていた。

 付き合い始めて二年。

 私が出張で出かけていた三日間。商談が早くまとまり、一日早く帰ってきたことの出来事だ。

 後輩と彼は元々同じ職場だ。連絡先を知っていたもおかしくは無い。だが、浮気をしているとは思わなかった。

 彼を信じ切っていた。彼は私がいないと駄目なのだと思い込んでいた。

 私って馬鹿だな。

 光が溢れてきた。目を開けると、参道の両脇に沢山の露天が出ていた。

 いつの間にか流れていた涙を拭った。

 唇を噛む。

 悲しい。

 悔しい。

 にくい。

 様々な言葉が浮かぶが、胸を大きく占めているのは『虚ろ』だ。

 ぽっかりと胸に大穴があいたようで、気力が無い。

 笑顔が氾濫する賑やかな祭り。

 私はまた唇を噛んだ。

 その中で、私はすることも無くゆっくりと露天を見て回った。

 昔のような新鮮さは感じられない。

 なんてちゃちで子供だましなのだろう。

 つまらない。退屈だ。

 私は童心を失った大人になっていた。

 私は歩いていた足を止めた。

 水干を来た少年が、狐の面越しにヨーヨー釣りを見つめていた。

「君、ヨーヨー釣りしたいの?」

 少年は私の方を見る。白い手が狐の面を少し横にずらした。

 あどけない少年。少年は「うん」と頷く。

 私は少年にヨーヨー釣りをやらせたあげた。

 少年は歓声を上げながら、クリップの釣り針にヨーヨーを引っかけていた。

「ありがとう!」

 少年は言った。零れんばかりの笑顔。たった百円でこれだけの笑顔が見れたのなら、安い買い物だったのかもしれない。

「君、一人なの?」

「うん。そうだよ」

 ニコニコしながら、少年は答える。

「お姉さんは……、一人みたいだね」

「うん。私も一人なんだ」

「それじゃあ、一緒にお祭りを楽しもうよ」

 少年は私の返答も聞かず、手を取って歩き出した。

 暖かい少年の手。

 笑顔で露天を見つめる少年。気がつくと、私は少年の手を握りしめていた。

 いくつかの露天を回り、私たちは神社まで来てしまった。

 鳥居から向こうは神域だ。そこに露天は無く、小さな社がぽつねんと建っているだけだ。

 いつしか喧噪から離れており、少年と二人きりになっていた。

「お姉さんはどうして泣いているの?」

 手にした風車に息を吹きかけながら、少年は尋ねてきた。

 私は少し戸惑いながらも、「彼氏に、振られちゃった」と答えた。

「そうか」

 少年は興味なさそうに言った。

「でも、それはきっと運命じゃないからだよ」

「運命?」

 唐突に放たれた言葉に、私は面食らった。年端もいかない少年が、運命のなんたるかを知っているのか。

「うん、そうだよ。だって、赤い糸は、決まった人としか結ばれていないんでしょう?」

 社の前まで来たとき、少年は左の小指を立てた。

「お姉さんの手を見てみてよ。赤い糸、何処に繋がっているかな?」

 私は力なく笑った。やはり、少年は少年だ。

 私は、小指を見てみた。そこには、いつ巻かれたのか分からない、赤い糸が結びつけてあった。

 また少年は笑った。

「知っている? ここの神様は、縁結びの神様なんだって」

「縁結び?」

 知らなかった。小さい頃は毎年お祭りに来ていたが、ここの神社の名前も、祀られている神様の名前も知らない。

「ここを訪れる人は、みんな縁結びの神様だって言っているよ。お姉さんも、お参りしてみなよ」

「………そうね」

 私は微笑む。

 こうなったら、神頼みしかない。

 僅かばかりのお金を賽銭箱に投げ入れ、鐘を鳴らして手を叩いた。

「お姉さんの前に運命の人が現れますように」

 明るい少年の声が聞こえた。

「あれ?」

 声が掛けられた。

 驚いて振り返ると、そこには背広姿の男性が立っていた。

「君は、咲惠か?」

 彼は驚いたように目を丸くする。

 呼吸が止まった。

 私の心臓が一瞬、大きく脈動した。

 頭の中が空っぽになって、これまでの嫌な事が全て抜け落ちた。

 どうして此処に? と聞く前に彼が答えた。

「仕事でさ、たまたまこの近くに来たんだよ。祭り囃子に誘われてさ」

 彼は笑った。

「咲恵は、まだこの辺りに住んでいるのか?」

「ううん。就職して東京に住んでる」

「同じだな。俺も東京に住んでる」

 彼は横に来ると、賽銭箱に小銭を投げ入れた。

 彼は手を叩き目を閉じる。

 子供っぽい雰囲気を残しつつ、すっかり大人になった横顔。

 少し鼻に掛かったハスキーな声。

 昔とは少し違うが、紛れもない幼馴染みだ。

「知ってる? 此処、縁結びの神様なんだって」

「そうか、じゃあ、良い縁に恵まれるようにお祈りしなきゃな」

 彼は笑った。

 つられて、私も笑った。

「この子が教えてくれたの」

 私は横にいる少年を見た。

 少年は消えていた。

「この子?」

 彼が怪訝そうな表情を浮かべる。

「さっきまで横にいたのに……。緑色の水干を来た男の子が」

 私は焦った。少年が何処かに行ってしまった。

 何処を探してもいない。提灯のほの暗い光に照らされた境内に姿は見えない。

「俺が来たときは、一人だったけど」

 彼の言葉に、私は呼吸は止まりかけた。

 あの少年は幻だったのだろうか。

 寂しさの余り、自分自身で作り出した幻影だったのだろうか。

 いや、幻であるはずが無い。

 私は小指を見た。少年に括り付けられた赤い糸は、あった。

 やっぱり、少年は私と一緒にいたのだ。

「……なんか、あったんだな。昔からそうだ。困ったことがあると、すぐに唇を噛む癖、まだ治っていなかったんだな」

 唇に指を当てる。

 癖。

 唇を噛む癖。指摘されるまで、気がつかなかった。

「飯でもいかないか? 話くらいなら聞ける」

「えっ……、うん……」

 私は頷いていた。

 少年の事も気になるが、それよりも、彼の事が気になっていた。

 歩き始めた彼の後ろを歩く。

「お姉さん、お幸せに!」

 声が聞こえた。

 私は振り返った。

 少年が、社の前に立っていた。

 少年は、こちらに手を振ると、頭に乗せた狐面を被った。

 少年は、社の方へ向かって駆けだした。

 少年は、賽銭箱の上を軽く飛び越えると、社へ溶けるように消えてしまった。

「どうかしたのか?」

 彼が振り返る。

 彼には少年の声も聞こえないし、姿も見えなかったのだ。

「ううん、何でもないの。いこうか、私、おなか空いちゃった」

 私は小走りに駆け、彼の横へ並んだ。

 私よりも、頭一つ背が高い。昔は、私の方が少し背が高かったのに。

 鳥居を潜る際、私はもう一度社を振り返った。

 少年の姿は見なかったが、私は小さく呟くように言った。

「ありがとう」

 祭り囃子が大きくなってきた。

 子供の頃のように心が躍った。

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