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狐の嫁入り 六章九話
「寒い……」
典晶は震えた。
激しい雨。深い、深い森の中。日が暮れたそこは暗く、雨音以外何も聞こえない世界だった。
名も知れぬ巨大な大木の洞に逃げ込んだいいが、視界全てを覆い尽くす闇と雨の中では、身動き一つ取れなかった。
「………」
寒い……
怖い……
震える体を止めるように、三角座りした典晶は膝を抱えた。
クゥン……
「大丈夫だよ、イナリ」
膝とお腹の間にいる白い狐、イナリが震えていた。典晶はイナリを抱きしめ、頬ずりした。いつもは暖かい体が、氷のように冷たい雨に打たれ、すっかり冷えてしまっている。
「大丈夫だから……心配しないで。大丈夫だよ」
典晶はシャツの下にイナリを入れると、襟から顔を出した。イナリは嫌がりもせず、典晶の為すがままになっていた。
「ホラ、こうすると暖かい」
典晶は笑おうとしたが、冷えて固まった顔はただ引きつっただけだった。
怖いし、寒い。だけど、典晶は一人ではない。イナリが一緒にいる。だから、大丈夫だ。この雨が止むまで、この闇が晴れるまで、典晶は耐えることができる。
イナリがペロリと頬を舐め、唇を舐めた。典晶は笑うと、もう一度強くイナリを抱きしめた。
「何も心配要らない。イナリも、僕と一緒なら怖くないだろう?僕も、イナリと一緒なら怖くない。イナリは、僕が守るよ。何があっても絶対に。だから、心配しないで、ね」
イナリは典晶の言葉が分かるかのように、コンと、大きく鳴いた。
………あき …………あき!
……のり……あき……!
…の…り…あ…き……!
「典晶! しっかりしろ!」
典晶はハッと目を覚ました。目の前にはイナリの顔があった。
「………」
典晶は何が起こったのか瞬時に理解できず、イナリを見つめ、そして、周囲を見渡した。
「常世の森……?」
揺れる視界。典晶は一度目を閉じ、深呼吸して頭をリセットする。
「そうだ。どうして典晶が此処に……?」
「どうしてって……、イナリを探しに……」
典晶は上半身を起こした。
今日のイナリは伝統的な巫女装束、白衣に緋袴を身につけていた。白い髪に白い肌、赤い瞳にその姿はよく似合っていた。彼女は巫女装束が汚れるのも気にせず、森の中に腰を下ろして典晶と同じ目線でいてくれた。
「危険なまねを……! 常世の森は、高天原商店街とは違うんだぞ! 妖怪の類だって沢山いる。此処にだって、妖怪が沢山いるんだ……! もし、典晶になにかあったら……」
イナリはホッと溜息をつくと、目頭を押さえて、イヤイヤするように頭を横に振った。
「イナリ……ゴメン……」
「大丈夫だ、典晶が無事なら、それで……」
「違うんだ!」
典晶は大きな声でイナリの言葉を遮った。
「違うんだ、イナリ。俺は、イナリに謝りたくて常世の森まで来たんだ……」
「謝るって、何をだ?典晶は、何も悪い事はしていないだろう?」
「したよ! したんだよ!」
典晶は唇を噛んだ。真っ直ぐな瞳。穢れない、こちらを信じ切っている眼差しから逃れるように、典晶は握り締めた拳を見つめた。
「俺は……ずっとずっと美穂子が好きだったんだ……。だけど、告白できるような勇気も無くって、そこへイナリが現れた。凶霊が美穂子に取り憑いて、俺はイナリの気持ちを知りながら、美穂子を助けたいと思った……。イナリなら、何でも言うことを聞いてくれるんじゃないか、助けてくれるんじゃないか。俺が頼めば、イナリは何でもしてくれるって知っていて、お前を利用したんだ……」
「………」
「ゴメン……! 俺は、最低の男だ! イナリに惚れられるような男じゃないんだ!」
典晶は土下座をした。腐葉土に額をつけ、イナリに何度も謝った。
「ゴメン! 本当に、ゴメン!」
イナリは何も答えない。
典晶か何度か謝ったとき、頭上からイナリの溜息が聞こえてきた。
「何を言っている」
スッと典晶の視界が暗くなった。白衣の袖が典晶の視界の左右を塞いでいた。
「そんな事、言われなくても分かっていた。分かっていて、私は協力したんだ。言っただろう? 典晶の友人は私の友人。なら、私が守るのは当然だと」
背中に温もりが感じられた。イナリが覆い被さっているのだ。
「だけどさ……!」
「だけどはいらない。私にそんな言葉は必要ない。典晶がどんな思いや考えがあったとしても、私は私の判断で行動しただけだ」
「だけど」
「必要ない」
イナリの優しい言葉が振ってくる。それだけで、許された気持ちになる。事実、イナリは全てを受け入れ、赦してくれる。結局、典晶はイナリに甘えてばかりだ。
「それでいいんだ。典晶がありのままの自分の気持ちを私に打ち明けてくれた。それだけで、私は嬉しい……」