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#001 宇都宮に映画を観に行った話。
はじめまして。
学生になれなかった人、美本きらです。
先日、
「ノルマル 17歳。-私たちはADHD-」
という映画を観てきました。
今回は、その感想を綴っていきたいと思います。
映画を観終わって最初に思ったのは、
―― 痛い。――
ものすごく胸をギュっと締めつけられる場面が多く、苦しかったし、
涙があふれて止まらなかった。
私は、当事者の目線で観ていたから、
自分の過去の追体験のようだった。
朱里と絃の心情や葛藤がすごくよく分かったし、同じくらい、つらかった。
映画を観てこんなにつらくなったのは
初めてかもしれない。
一方で、朱里と絃とは、異なる点もあった。
それは、家族だ。
朱里と絃の家族は、ADHDを誤解していて
受け止めようとせず、彼女たちを責めるような描写か多かった。
それに対して私は、ADHDが理由で家族に責められたことはない。
だから、朱里と絃の家族のような反応が
とても新鮮であると同時に、
これが「普通」なのかもしれない、とも思った。
それは、とても悲しいことに思えた。
誰よりも味方であって欲しい家族に拒絶されるのがどんなにつらいことか。
朱里と絃はずっと孤独だった。
だからこそ、2人の出会いは、お互いにとってすごく大きな出来事であり、大切なことであると思う。
自分のことを受け止めて、認めてくれる人の存在が
どれだけ自分に希望をもたせてくれるかは、言うまでもない。
―― 私たちが見ている世界が現実で
「普通」の人たちが見ている世界は夢 ――
絃が朱里にこう話す場面があった。
その通りかもしれないと思った。
「普通」の人たちには、人間の綺麗なところばかり見えていて、
あたりまえがあたりまえにできて、
苦しいことがあっても、それはきっと死を覚悟するような程ではない。
それに対し、私たちは、人間の醜さや歪さを知っているし、
自分のやりたいことができな挫折を日々味わっている。
時には、生きることを放棄したくなる程に苦しんでいる。
この映画を観たからといって、ADHDが治るわけでもないし、
日々の困りごとへの解決策が見つかるわけでもない。
でも、それでいいと思った。
むしろ、それがいいと思った。
正解を求めたり、価値観を押し付けたりするわけではなく、
「あなたならどう考えるか?」
と問われているところに好感が持てた。
この映画の感想や考察は、
様々な意見があっていいと思う。
「感じ方は人それぞれだよね」
というところに気づき、そしてそれを
「認め合おう」
というのが、この映画の意図のように感じた。
だから私は、この映画を観るだけではなく、「対話」をしてほしいと思う。
私はこう感じたけど、あなたはどう思った?
と、対話をする機会を設けてくれる
すばらしい映画だ。
また、この映画は、
何回観てもおもしろいと思う。
人それぞれに感じ方があるように、
自分のおかれている環境や経験によって
見方がかなり変わると思うからだ。
だから、この映画を何回でも観て、
自分自身とも対話してほしい。
自分と向き合うことが、今の日本人にとても必要なことだと思う。
私も、あと5回は観たい。(笑)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、
映画「ノルマル17歳。-私たちはADHD-」
の感想を書かせていただきました。
これをきっかけに、
劇場へ足を運んでいただけると幸いです。
それでは、また。