私たちは永遠に情報に隷属するのか(主張ではなく今のところ覚書)
成田さんという方の日経の記事を読みました
フォローしている後藤さんがこの方をフォローされているらしく
私のタイムラインに上がってきたのだ
実は全然理解できなかったのだが
非常に知的な友達が助言してくれたので
その助けを借りて今考えたところをメモしておきます
(理解できなかったのが恥ずかしいので隠しておきたいのだが
近未来の発展的理解を自分に期待して)
<わたしのつまづき>
私がまず混乱してしまったのは
一物多価の下りでした
最初に不動産のことが頭にあって
不動産価格や金利は借り手により大きく変わる
つまり強い者、賢い者は有利に買えて借りられて
弱い者、愚かな者は不利に買い、借りる
例えばアメリカなんかは非常に不動産価格にまつわる情報がクリアにされてるのだけど
日本の場合には「ここに載せなければダメ」というサイトが整備されるのに何年もかかり
いまだそこに乗らない「川上情報」が珍重されて
つまり現にある「一物多価」=情報のゆがみこそが不動産関係者の利益の源泉になっている
一部の若者がデジタル化によって是正しようとしているらしいけど目立った動きにはなっていないし
それこそ既得権の大部分がこの歪みに依存しているのだから
業界全部を敵に回すくらいの仕事になるのではないか
少し誇張すると真実の価格をいかに隠すかが不動産投資といってもいいくらいです
そこにいくとトヨタの株など誰が買っても同じ値段です
未上場の株なんかはそうではない、野蛮な世界で不正行為の温床にもなりうる
だから上場株式=一物一価は私にとっては洗練された進化の世界
だからこの方が何言ってるのか全く分からなかった。
<躓きから一応立ち直ってわたしのかんがえ>
「『実態』と『記録』との乖離が成田先生のグラフにあるように果てなくゼロに近づく日が訪れるとは到底思えません。」
わたしもそうおもうというか、むしろ願う
果てなくゼロに近づく日
それはいわゆるデジタルタトゥーみたいなのがあらゆる人に刻印されるということにもならないでしょうか?
「価格を介さず個々人の属性と過去の活動履歴にもとづき、その人が何をしたり何を手に入れたりすることが許されるのか”
直接決まるような経済像」(引用です)
その経済なるものがあいまいな大衆の意識・気分や取り留めもない小さな偏見などに基づいたり端を発したりするとき
そんなものが「決める」とき
それは近代法が禁じた「私刑」とどう違うのでしょうか。
皮肉にも確かに太古への回帰ではあるけど
私たちは素朴な社会の仕組み自体はすでに失ってしまって複雑だから
そこで振るわれる私刑の暴力はすさまじいのではないか・・・
うーんさらに考えたいけど
背筋の凍る世界観。
吐き気のする世界観、私たちは永遠に情報に隷属するのか
それくらいだったらときどき「地面師」の暗躍を許す社会のほうがずっと好ましい気がする
この方については存じ上げないのだが
もしも戯言でないのならだれかの解説や反論を読んでみたい。