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自己紹介と、AIの仕事で人類をタイムマシンに乗せる野望の話
はじめまして。キリカという名前で活動している者です。
この記事は、私の投稿を読んで「この人は何者なんだろう」と興味を持っていただいた方のために書いています。
私は現在UI/UXデザイナーとして都内の企業に所属してAI製品の開発をする仕事をしながら、プライベートでは個人事業としてガジェットショットというガジェット系の媒体を2010年から運営し続けていたり、企業のソフトウェアデザインの外部監修をしたり、外部のメディアに寄稿したりと、会社員&副業で複数の収入源を並行して持っています。
在宅で働けるメリットを活かしたライフスタイルを追求しており、神奈川で江ノ島に歩いて行ける距離のリゾート感のある家で独身生活を過ごしたのち、2023年に北海道民の妻との結婚のため北海道へ移住し、更なる理想の生活に向けて試行錯誤を進めています。
また幼少期を過ごした第二の故郷であるイギリスに思い入れがあり、趣味でイギリス車のロータス・エリーゼに乗っていたり、ブリティッシュショートヘアの猫に好きな紅茶の銘柄の名前を付けて一緒に暮らしていたりします。
今でこそ好きな仕事をし、車趣味を楽しみ、家で妻と猫と共に過ごす穏やかな暮らしに落ち着いてきてはいるものの、ここに至るまでの道のりは決して順風満帆ではなく様々な自分の不得意を受け入れながら沢山の遠回りと試行錯誤を繰り返してきました。
そういった試行錯誤の記録はもしかしたら誰かが同じ苦難を乗り越えるための道標になるかもしれないと思ったので、記憶を振り返って私の価値観を構成するエピソードを自己紹介がてら集めてみました。
——事の始まりは、小学校の頃まで遡ります。
小学校の頃の夢
1991年、愛知県出身の両親の間に私は生まれました。
当時は裕福とは言えない家庭でしたが、文字が読める年齢になってから両親は本だけは惜しまず買ってくれたのをよく覚えています。私は本を読んで自分の世界を広げるのが大好きで、物語も好きでしたが、一番お気に入りだった本は小学館の「こども大百科」という大型本でした。
生物、科学、世界、乗り物、環境、食生活、最新技術などあらゆる分野の基礎知識を子供向けに図解している本で、世界はこんなにも面白い事に溢れているのかと毎日毎日、最終的にはボロボロになるまでこの本を隅々まで読んでいました。
私が世の中の技術に興味を持ち、未来に目を向け始めたのはこの頃です。
最近、漢字を覚え始めたその頃の作文が実家で発掘されました。四半世紀も記憶から抜け落ちていた文章が蘇ってきて、その内容に驚きました。
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「大きくなったら、けんきゅうしゃになりたいです。」
そこには「人のために働いてくれたり、車を運転してくれたり、家事を手伝ってくれたりする機械を作りたい」という事、そして「タイムマシンを作って困っている人を助けたい」という夢が書かれていました。
2025年まで進んだ現代ではAIが人の仕事を代行する未来が見えてきた所で、自動運転も米国では実用化され、ロボット掃除機も普及して久しい時代となっています。当時思い描いていた未来に到達しているのは、感慨深いものがあります。
AIの力を本格的に人々の業務に役立てようと物作りをしている今の私の仕事は、当時の「人のために働いてくれる機械」そのものと言えそうです。もし過去の自分に手紙が送れるなら、あなたはちゃんと夢を叶えているよと伝えてあげたいです。
そしてもう一つの「タイムマシンを作りたい」という野望は、実はその後も構想を練り続けてきた人生のテーマでもあります。
勿論、現在の技術では人間が過去や未来にタイムスリップできる乗り物は到底実現とは遠い、サイエンスフィクションの中の空想上の乗り物でしかありません。
ただ人間を過去や未来に送る事はできなくとも、一歩先の未来へ行くだけなら実現できると、私は10代の頃から考え始めていました。
人類の生産性を底上げする事ができれば、人類の未来は早くやってきます。
仮に、革新的な家電が10年の開発期間をかけて発売されるとしましょう。もしその企業の生産性を1割でも底上げする事ができれば、本来10年掛かっていた開発が9年になり、人類にとっての未来が1年早くやってきます。
つまり、人類の生産性を底上げする仕事に取り組む事ができれば、実質的に人類をタイムマシンに乗せて未来に送っている事と同じと考えました。
これを「タイムマシン構想」とし、私の中の壮大な野望が始まったのです。
この構想は社会人になるまで練り続け、結果として私は新卒でリモートワーク支援の製品を開発する会社に入り、人々の仕事の生産性を底上げする製品の開発に取り組みつつ、最新のテクノロジーを人々に届けるブログとの両輪でタイムマシン構想を進める生活に入って行きます。
イギリスの現地校で役に立ったポケモンの知識
時を同じくして、私は小学1年生の終わりに父親の海外赴任のためイギリスに引っ越す事になり、中学1年生の終わりまで海外で過ごす事となります。
英語を一言も喋れない私は現地の学校の初日は大泣きして帰ってきましたが、周りの優しい友達や先生のお陰で少しずつ英語と現地校に馴染んでいく事ができました。
その背中を押してくれたのが「ポケモン」です。
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ポケモンは当時の2000年前後のイギリスでも大ブームで、日本を出る前に両親にポケモン「緑」を買ってもらった私自身もハマっていましたが、現地のイギリス人の子供たちも熱中しているコンテンツでした。
攻略本を横にポケモンをやり込んでいた私は150匹のポケモンを何レベルまで育てると何の「わざ」を習得するのかを完全に覚えており、そのお陰で学校の子供達はみなポケモン博士の私に話しかけてくれたのです。
英語版と日本語版のポケモンはネーミングが異なる部分も多く最初は戸惑いましたが、私は友達の質問に答えられるように英語版の名前も頑張って覚えて、周りの質問に答えられるように努力しました。
そのお陰で私は学校では人気者になる事ができ、ポケモンをきっかけに沢山のお友達と会話をすることができたので、結果として英会話の上達にも繋がってくれました。
この頃の体験を通して自分の周りに与え続けることで自分も幸せになれる事を感じ、大人の言葉で言う「ギバー」の精神が養われたきっかけになったと感じています。
この原体験は今の活動にも繋がっており、4000記事以上公開しているブログは勿論のこと、先日無料で公開した海外の英語サイトでAI出力を添削して外貨を稼ぐ解説のnoteは数多くのお礼のメッセージやチップを頂き、先述した「社会の生産性を底上げする」野望も前に進める事ができました。
また、Webの世界に入ったのもこの頃です。
当時イギリスのマンチェスター付近に住んでいた私は周りに日本語の本が置いてある本屋などなく、日本の本が買えるのは年に一度ロンドンに遊びに行く時だけでした。
そして10歳の頃、ロンドンの本屋に入った私は技術本のコーナーの前で足を止めました。そこで面白そうだなと思って手に取ったのが、HTMLの解説本です。
私はパソコンの授業は好きでしたが、この時点ではまだこれといったスキルは無く、ちょっとパソコンの基本操作が分かるだけの普通の小学生でした。
本屋で立ち読みしたところ、インターネットにあるサイトはHTMLという言語で書かれており、HTMLが書ければ自分もWebを作る側の人間になれるということが分かったのです。
すぐ本を持って親の所に行き、これに興味があるから買ってくれとお願いをしました。親も困惑した事でしょう。10歳の子供が、よく分からない技術の本を突然持ってきて欲しいと言い出したのです。同年代の子供たちは、本屋に行けばポケモンの新作の攻略本を欲しがっていた時代だったと思います。
でも、買ってもらえたのです。これが始まりでした。
あの頃、両親が得体の知れない謎の技術本を欲しがる10歳の私を信じてHTMLの本を買い与えてくれたお陰で、私はそこから20年以上サイトを公開し続け、仕事でもUIを設計し、HTML/CSSも触る技術者になっています。
本への投資を惜しまなかった親には、本当に頭が上がりません。
——余談ですが、私はこの頃に母親の趣味でイギリスの紅茶を毎日のように淹れてもらっていたお陰で紅茶が好きになり、今でも猫に好きな紅茶の銘柄の名前を付けるほど好きです。
帰国後に出会った、ブログという生涯の趣味
2005年には日本に戻り、中学2年から帰国子女と外国人子女を受け入れている中高一貫校に通い始めました。この頃を境に、私は生涯の趣味と引き換えに、没頭のあまり学校の授業は居眠りするようになり、上位を維持していた学校の成績は崩壊していきます。
「ブログ」と出会ってしまったのです。
先述したとおり10歳の小学4年生からHTMLは書いていましたが、イギリスに住んでいた頃はまともな自宅用のPC環境が無く、インターネットに触れられる時間も限られていました。
そんな僅かな時間の中でブログで発信する事は発想として無かったのですが、日本への帰国を機に父親は家族用のPCを買い、ブロードバンドを引き、WiFiを設置してくれたのです。
これが転機でした。
家族用のPCとは名ばかりで、完全に私が部屋に引きこもって独占する形で、インターネットの海を彷徨い始めます。そこで出会ったのがブログでした。
ブログで人の役に立つ情報を公開すれば読者が集まり、あわよくば収益化してお金を稼ぐ事もできる。小学校の頃に覚えたHTMLの知識も活用できる。「これは面白い趣味になりそうだな」と思ったのです。
また当時の私のお小遣いは月1,000円。学校に行くと月3,000円、月5,000円遊ぶお金を親に貰っている人が居て、月1,000円じゃ何もできないと不満に思っていました。
ただ何を思ったか、私は親にお小遣いアップの交渉をするのではなく、インターネットを使って人気者になり、周りの友達より沢山のお金を手に入れてしまえば良いじゃないかと企てたのです。
何も持たざる者のただの中学生が人気を集めるにはどうすれば良いか。戦略が必要でした。そこで考えたのが、英語圏の情報の輸入です。
以前「英語力が実際に人生の役に立った具体的な場面を振り返る」というnoteでも振り返ったエピソードになります。
私は当時、英検準1級に合格したお祝いとして両親にAppleのiPod miniをプレゼントとして貰いました。一見ただの音楽プレイヤーなのですが、インターネットに没頭していた私は、海外のフォーラムで面白い情報を見つけます。
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どうやら、iPodはPCを使って中身を書き換えると、ゲームをインストールしたり機能を追加したりといった改造ができるようなのです。こんな面白い情報がインターネットには転がっているのかと目を輝かせました。
ただ、これを日本語で解説してる人はほぼ居ませんでした。
チャンスだと思いました。私は頑張って海外の英語で書かれたフォーラムの情報を辿り、実際にiPod miniの改造を検証し、日本語での解説記事を書いていったのです。
結果、大好評でした。
雑誌にも取り上げられ、瞬く間に人気ブログとして駆け上がっていきました。こういった改造ネタは当時は「アングラ系」といった名前で呼ばれるジャンルで、アンダーグラウンドな「普通の奴は知らない」裏情報を好む中二病的な読者の心を鷲掴みにしていたのです。
その後、私はWindowsのカスタマイズやPSPの活用方法など横展開を進め、WordPressを勉強して独自ドメイン+自作テーマでブランディングを強化し、高校生になる頃には年間数百万PV規模の人気ブログを何本も並行して書いていました。
年齢的な問題でアフィリエイトの多くはそもそも登録が出来なかったものの、読者層も若年層が多かった事もあり、マネタイズにはポイントサイトの紹介システムを活用しました。
ポイントサイトというのは、スポンサーサイトの無料会員登録や資料請求などを行うと引き換えにポイントを貯める事ができ、一定ポイントが貯まるとオンラインゲーム課金に使えるWebMoneyや銀行振込で換金ができるという仕組みのサイトで、バイト禁止の中高生に当時絶大な人気がありました。
そして、私が注目したのは紹介システムです。
紹介リンクを使って他のユーザーを紹介すると、紹介されたユーザーがポイントを獲得した際に50%相当のポイントが紹介した人にも入るのです。
自分でせっせとポイントを稼ぐのではなく、紹介者を集めた方がトータルで効率が良いのではと思い、私は読者を集めている各ブログに導線の紹介リンクを設置し、紹介者を集めました。
その読みは当たりました。
高校1年生の夏になる頃には400人の登録者を集める事ができ、その400人の働きの50%を紹介料として受け取る事で16万円の現金を換金する事ができたのです。
アルバイトすらした事ない私にとっては、大きな成功体験です。
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この16万円を使い、私は初めてのMacBookを購入。WebデザインやWordPressの世界に更にのめり込んでいく事になります。
この中高生の頃の原体験が私のブログ活動の「型」となり、生涯の趣味としてブログで情報発信し、稼いだ収益を機材に投資し、自分のスキルを磨いていくという以後のサイクルが始まったのです。
居眠りのツケを払い、偏差値30台の大学へ
中高生の頃に学業そっちのけでブログ作りに没頭したのは、当然ながら良い事ばかりではありませんでした。
帰宅後PCに張り付き、朝までインターネットに没頭し、登校したら授業はほとんど居眠りするという極端過ぎる生活をしていた私は当然学校のテストは赤点だらけで、担任の先生に親を呼び出される事もありました。
「お前はやりたい事とやるべき事の優先順位をちゃんと付けろ」
厳しく叱られたのを今でも覚えていますが、私はそれでも自分の取り組んでいるものが「やるべき事」だと強く確信しており、先生の言葉には全く納得していませんでした。
高校3年生の頃まで進路希望調査には憧れの「慶應義塾大学 環境情報学部」と書き続けていた私ですが、当然ずっと居眠りしているような授業態度だったので担任からの反応は冷ややかでした。
「悪い事言わんから、指定校推薦で行ける大学に行って就職しろ。」
私がもし教員の立場だとしても、授業を全部寝ているような生徒が「慶應」などという寝言を口から出そうものなら言い回しは違えど似たような指南をすると思います。
普通に考えて、無謀なのです。
私は慶應に受かるための戦略は考えていましたが、高校生の立場から見た教師の言葉は思った以上に絶対的なもので、そこまで言うのならと憧れは心の底にそっと仕舞い込み、指定校推薦を頂いて進学しました。
偏差値30台の、情報系大学に。
そこからはもう、がむしゃらでした。Fラン大学ならFラン大学なりに、そこで一番活躍する学生になろうと思いました。
小さな大学だったので、サークルは片っ端から入りました。軽音部からイラストサークルまで、月曜日から金曜日まで色々なサークルを渡り歩きました。果てに自分でWeb制作のサークルを創設し、近所のNPO法人のサイトをボランティアで制作するなど、実績を積み重ねていきました。
学内で有志が集まって取り組んでいたiPhoneアプリ開発にも参加し、Apple Storeで発表したりと、当時としては先進的な活動にも取り組みました。
19歳でブログも白紙からリブランディングし、「30代になっても胸を張って書き続けられるメディア」としてガジェットショットを企画して立ち上げ。これに関しては当時の目論見どおり、実際30代になった今も私のライフワークとして続いています。
他には夜行バスで関西に足を運んでビジコンを兼ねたハッカソンイベントで入賞したり、コワーキングスペースを渡り歩いてフリーランス的な活動をしたり、名古屋のIT企業でUIデザイナーとしてアルバイトしたり。
この頃の下剋上的エネルギーは計り知れないレベルだったと思います。
そんな生活を2年間ほど続けた頃に、もっともっと活動したいと思った時、今の箱は大きさが足りないと感じました。もっと自分に無い才能を持った人が集まる場所に身を置き、一緒に面白い事に取り組みたい。そこで、ふと心に仕舞っていた憧れを思い出したのです。
私は次の活躍の場所として、改めて慶應を目指す事にしました。
Fラン大学を中退し、慶應への進学に成功
以前公開した「Fラン大学を休学して慶應SFCにダブル合格した時に取った、思い切った受験戦略」というnoteで当時の詳細な戦略を語りましたが、私は大学を中退して本命の慶應義塾大学を受験し、無事合格しています。
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慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(慶應SFC)は、神奈川県藤沢市の緑に囲まれた慶應の中でも一風変わったキャンパスです。理に融合した文系の「総合政策学部」と文に融合した理系の「環境情報学部」の2つの学部により構成され、座学よりも社会に実在する問題を解決する実践に重きを置いています。
私はインターネットに没頭していた中学生の頃、サイト作りを通して知り合った友人にSFCの存在を教えてもらって以来、虜になっていました。日本のインターネット発祥の場所であり、技術を駆使して実社会の問題を解決していくアプローチは私の野望とも合致していました。
一度は諦めた道でしたが、今回こそは絶対潜りたい門です。
私の受けた「総合政策学部」「環境情報学部」の2つの学部は英語+小論文というシンプルな構成の受験科目だったので、帰国子女の英語力のメリットを活かして英語の対策は一切せず足切りラインを越える事だけを意識し、小論文で求められる要素を時間内に確実に書き出す練習をして臨みました。
その結果、私は総合政策・環境情報ともに合格。
晴れて慶應生となり、神奈川で一人暮らしを始めます。
物作りに没頭した慶應での4年間
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私は前の大学に2年間通った上で休学して1年間が経っていたので年齢としては現役より3年遅れての入学になりましたが、いざ入学してみると周りもそんな感じの学生ばかりで、年齢は全く不安要素にはなりませんでした。
同級生の経歴を聞くと大学中退や専門学校卒は当たり前で、一癖も二癖もある不思議な経歴の学生が集まっており、本当に誰と話しても面白いエピソードが出てきて退屈する時間はありませんでした。
これぞ私の求めていた環境だと、心の底から感動したのを覚えています。
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SFCの敷地内に出店されているサブウェイで昼食を買って「鴨池」の前の芝生に座って交流できる環境は、何だか日本の大学に通っている気がしない空気感でした。実際こういったオープンな空間では英語が飛び交っている事が多かったので尚更です。
入学直後の頃、その鴨池を眺めながらMacBook Airを開いて見慣れない入力システムで文字を打ち込んでいる方を見かけて声を掛けたのが、私がUIデザインの道を歩み始める大きなきっかけでした。
「増井さんですか?」
私が話しかけたのは、かつてAppleのスティーブ・ジョブズから直々にスカウトされ、iPhoneの日本語入力システムを作ったUI研究者の増井俊之さんでした(スカウトされた経緯はジョブズたんとの遭遇にて掲載されていてだいぶ面白いです)。
Google日本語入力やATOKなど一般的に入手可能なその手のアプリは大体試している私でも一度も見た事のない入力システムを使っていたので聞いてみると、これは自作の入力システムですと説明されてびっくりしました。
この「自分が欲しいものを作る」という増井先生の発明に対するスタンスに私は多大なる影響を受け、在学中に他の学生と組んで色々な物を作るきっかけにもなりました。
私はSFCの1年目から卒論を書くまで丸々4年増井研に所属し続けましたが、学生も発明家タイプが多く集まっており、毎週毎週の学生の進捗発表が本当に楽しみでした。
また、この頃はちょうどCSSアニメーションの技術が普及し始めており、増井研内でも新しいCSSの技術でどんな物が作れるか、学生が実験して発表していました。それを見た私はCSSを駆使した心地よいUIアニメーションを作る事にハマり、これが後のUI/UXデザイナーとしてのキャリアの中核技術の一つになっていきます。
なお、当時その実験をしていた学生はCSSアニメーションを用いてブラウザの画面上でデザインを作るツールを発明していて、それが後のノーコードデザインツールのStudioとして知られている物になっていきました。
本当に面白い発明家が集まっている環境で、刺激が絶えない4年間でした。
この発明家に囲まれた環境を黙って見ている事など出来ず、私自身も大学生活を便利にするChrome拡張をプログラマーの友達と一緒に作って配布する事で教室中の学生のMacBookを自分たちが作ったツールで埋め尽くしたり、登場したばかりのWebプッシュ技術でプッシュ通知のサービスを社長業やプログラマーの友達と一緒に作って大企業に次々と採用されたり、「周りの学生と組んで発明をして、社会に影響を与える」という行為にすっかりのめり込んでいました。
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SFCで学んだデザイン領域はユーザーインターフェースに留まらず、一年目から竹之内博史先生の講義で学んだプロダクトデザインも私の学生生活に多大なる影響がありました。
毎週毎週実際に資材を買ってきて何とかしてモノを作って提出しなければいけない彼の講義は難易度が非常に高く、受講者の半数以上が脱落する事で学生に恐れられていました。
私は絵心も無く、立体物のデザインに関しては全く歯が立たない状態で当初は最後までやり抜けるか心配でしたが、毎週毎週徹夜で課題を仕上げ、なんとか最後まで生き残る事ができました。
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私は作画こそは苦手だったものの、ガジェット系のブログを何年もやってきた経験から、プロダクトの細部まで写真を撮ってレビューするという行為を日常的に繰り返していました。その着眼点を買われたのをきっかけに先生と親睦を深め、春学期の講義が終わった後、秋学期から講義のアシスタントとしてお手伝いをさせていただける事になったのです。
先生は携帯電話のデザインなども手掛けた経験があったので、新しいスマートフォンを手に入れては先生のデスクに持っていき、一緒に造形を観察して先生のコメントを聞くというのが本当に楽しかったのを覚えています。
何度もお話する中で、先生が過半数の学生を脱落させるほどの難しい課題を出していた裏には、「学生が本気で作らないと教える意味がない」という意図があった事を教えてもらえた時は、本当に感銘を受けました。
専門学校でもない四年制大学のたった一つの半年の講義でプロダクトデザインを1から10まで教えるのは不可能で、浅い座学だけでは何も学ばないまま半年間が終わってしまいます。
だから本気で取り組んで、本気のダメ出しを食らって、悔しい思いを乗り越えて半年で出来る限りのプロダクトデザインを身につけてもらいたいという愛が込められていたのです。
この講義、アシスタントの業務、そして先生との些細な雑談の時間からは本当に多くの事を学ばせてもらえていただけました。
この「本気でやらないと意味がない」という体験は、庭は違えど以後の私の取り組んだ数々の作品やデザインの仕事に脈々と受け継がれています。
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車に乗り始めたのもこの頃で、生活費をブログのアフィリエイト収入で賄えていて程々にお金の余裕があったので、中古のトヨタのMR-Sを買って通学に使っていました。
私は元々「車の免許なんてオートマで良い」派で、そもそも免許も持っていなかったのですが、当時憧れていたイギリス車の「ロータス・エリーゼ」がMTしか無い事と、周りの学生にそそのかされた事もあり、仕方なくMTが運転できる免許を取りました。
エリーゼには興味あがったものの車はそれほど詳しくなく、積極的に免許を取りに行く意欲も特に無かったため、車好きとしては免許を取るのが24歳と、かなり遅くなりました。
MR-Sを選んだのは、エリーゼと同じ2シーター・ミッドシップ・オープンカー・MTという要素が揃っていて、練習になるかなと思ったからです。
MR-S自体は初めての中古車で状態の悪い物を掴まされてしまったため学生のうちに不動車になってしまいましたが、この頃の「湘南ナンバーのオープンカーで江ノ島エリアを走る」という趣味はベタながら自分の感性にとても合っており、のちに社会人になってから憧れの車で同じ生活をしようと思うきっかけとなりました。
月150万PVで絶好調のブログ活動
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進学を機に関東に引っ越したのはガジェットブログ運営の面でも多大な恩恵があり、テクノロジー企業が渋谷などポップアップストアが多く出店する場所にタイムリーに行けたり、秋葉原の電気街に足を運んで新しい情報をキャッチできたり、都内のブロガーイベントに気軽に参加できたり、江ノ島など分かりやすく映えるスポットでカメラの作例が撮れたりと、非常に恵まれた環境でした。
人に会いに行けるのも嬉しかった所で、関東圏の経験豊富な携帯ショップ店員や詳しい友人の交友関係がより広がったのも、実家でインターネットだけを見て書いていた頃と比べると圧倒的な強みになりました。
このような環境で常にアンテナを張りながらの最新情報の記事やガジェットレビューも非常に好調で、ガジェットショットは一時期は月150万PVを集めるほどの人気ブログにまで成長していきました。
暗黒の就職活動と、最後に見えた光
充実した順風満帆の学生生活を送っていた私ですが、やはり人生山あり谷あり。就職活動では、大きな現実の壁にぶつかる事になります。
「新卒カードは、新卒でしか行けないような会社に使え。」
誰に言われたのかもはや覚えていませんが、当時は大企業志向が凄く、中小企業はいつでも転職で入れるから、新卒の就活は新卒でしか入れないような大企業に使うと良いという風潮が強くありました。
当時の私はガジェットが大好きだった事もありメーカー志向が非常に強く、自分の好きなガジェットのメーカーで働けたら最高に楽しいだろう、自分が進むべき道はこれだ、と信じて疑いませんでした。
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とりわけソニーのXperiaシリーズは毎年新作を買うほど大好きで、出来る事ならソニーに入社したいと思っていました。XperiaのUI/UXデザイナーであれば趣味が仕事を兼ねて最高です。
そして正直な話をすると、「慶應卒なら大手いけるやろ」と思ってました。
でも就活はそんなに甘くないと、すぐに思い知りました。
大手企業はフィルターとして学歴だけでなく、SPI検査というテストを採用している事がほとんどです。このテストで点数が取れないと、応募者が殺到する大企業で履歴書を読んでもらう事すら不可能でした。
高校の授業を放り出していたツケがまたしても回ってきました。SPIは全くをもって歯が立たず、SPIを採用している企業は全て諦める他無かったのです。
ソニーは勿論のこと、ソニーからPC部門が独立したVAIO、その他メーカーは応募したものの全て書類やSPIで落とされてしまいました。
正直、絶望的でした。
どうしたものかと思って困り果てていた時、学内の同級生のインターンシップ先のツテで、ITメガベンチャーとして有名なDeNAの特別選考を受けられる事になりました。書類選考などは行わず、事業責任者が出す課題に一週間取り組む事で評価してもらえるというものです。藁にもすがる思いで、選考をしてもらう事にしました。
課題を出した担当者は、キュレーションメディアの責任者でした。
当時のDeNAはキュレーションメディア全盛期で、WELQ、MERY、iemoなど他のサイトからの転載により格安の制作費で規模を拡大し、広告料で莫大な利益を出していた事業です。
課題は「DeNAのキュレーションメディアを成長させる方法」でした。
期限は一週間、使えるツテは全て使って聞ける人に聞き、提案書を仕上げてこいと渡されました。
私はDeNAのキュレーションメディアの運営方法に対しては懐疑的で、このような「引用」を建前にした無断転載が横行するコンプライアンスを軽視した運営では何かしらの社会的制裁を受けるのは時間の問題だろうと考えていました。
私が提案した内容は以下のとおりです。
現在の運営体制は法的リスクを抱えているため、可及的速やかに見直す。
UGC(ユーザー生成コンテンツ)によるコンテンツの拡充を進める。
多言語展開し、市場をグローバルに広げる事で規模を拡大する
結果としては、そんな事じゃ事業は成長しないよと選考は落とされてしまいました。しかし、数ヶ月後驚くべきニュースが飛び込んでくるのです。
DeNAが無断転載や薬機法違反により大炎上し、全てのキュレーションメディアを畳む事になったのです。
選考には落ちましたが、私の提案は正しかったのです。指摘した法的リスクが、本当にDeNA事業を丸ごと潰す事になってしまいました。うっかり内定を貰っていようものなら乗る前に船が沈んでいたので、落とされて本当に良かったと思います。
この経験から、私は大企業の方針より自分の理念を信じて進むべきだと感じ、私の中での大企業神話は音を立てて崩壊していきました。
そしてDeNAの選考と並行して、私はOfferboxというサービスで頂いた一通のメッセージをきっかけに、とある中小企業の採用担当と連絡を取り合っていました。
Offerboxは就活生が企業を選ぶのではなく、企業の採用担当が就活生のプロフィールを読んで声を掛ける、逆求人タイプの就活サイトです。
送信元は聞いた事もない名前のIT企業でしたが、事業内容を見るとどうやら自分のスキルが活用できそうな内容でした。そして何より、メッセージを送ってきてくれた方の人当たりが非常に良く、就活で今まで感じた事のない温かみを感じたのです。
私は都内に足を運び、面接を受けてみる事にしました。
そして第一面接で「ガジェットが好き」という話をすると、面接担当の方が「社長と話が合いそうだし、社長呼んでくる?」と言って本当に社長を連れてきてしまったのです。
社長は私と同じく幼少期をイギリスで過ごした経験があり、日本の型にはまったやり方より多様性を重視した社風を作り上げていて、ガジェットが好きの私とも話が合いました。
素直な感想として、「この人たちと一緒に仕事してみたい」と思いました。
働いている人たちの人柄、社風、英語が活躍する外国人の多い職場、そしてまだ社内にUI/UXデザイナーが居ないという事で、いかにも私が活躍できそうな穴も空いている組織でした。
自分が必要とされている場所があるなら、そこで働くのが一番です。
そして、この会社の製品は企業向けのリモートワーク関連のサービス。私の「人類の生産性を底上げして未来を少しでも早く引き寄せる」という野望が叶えられる製品だったのです。
めでたく、私の就職活動が終わりました。
新卒UI/UXデザイナー時代
都内で働くため、私は神奈川のボロアパートから東京23区の端にある新築マンションの1K部屋に引っ越して社会人生活のスタートを切りました。
率直に言って、めちゃくちゃ楽しい新卒時代でした。
学生時代までの人生の中で培ってきた、英語、Web、アニメーション、デザインなど全てのスキルが実践でいきなり通用する職場でした。
英語で様々な国籍の開発者とコミュニケーションし、UIをデザインし、Web上のフロントエンドとアニメーションまで実装でき、本当に楽しく自分の持てる力を発揮できました。
無論、私は即戦力として会社に大歓迎され、四苦八苦したものの就職活動の末に正解ルートを選ぶ事ができた事を強く確信しました。
日々の業務と並行して私は手探りながらデザインシステムを整え、数年後にはデザイン組織として部下を持ち、2024年にAIプロダクトの現場を求めて現職に転職するまでの7年間、自社製品のデザインを作り続けました。
そして転職した今でも前職のこの会社とは業務委託という形で関係を保っており、新卒から育てたプロダクトを少し距離を置いた副業の立場から育て続けています。
勤続年数0年0ヶ月から始まったカーライフ
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新卒で働き始めた最初のゴールデンウィーク直前、仕事から帰ると郵便受けに近所のマンションの外貸しの駐車場の募集のチラシが入っていました。
機械式駐車場の地下区画で、月々11,000円から。徒歩10分圏内。
端の方とはいえ東京23区内で、月極駐車場の相場は月2〜3万円からという立地でこれは掘り出し物。しかも雨風の届かない機械式の地下。こんな好条件は中々ありません。
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そしてゴールデンウィークに入って友人と大洗に遊びに行った時、立ち寄った場所のGoogleマップにたまたま私の憧れの車が写っていたのです。
その流れでグーネットのアプリでエリーゼを検索すると、たまたま私の理想の個体が横浜のディーラーの認定中古にて在庫されていたのです。
私の憧れたエリーゼは2011年頃に終売してモデルチェンジしており、新車では入手不可。そのため「いつか新車に近い状態の中古を手に入れて乗りたい」と常々思っていました。
その条件にぴったり合うものが、横浜にありました。
「とにかく、実物を見て乗ってみたい。」
すぐに試乗の予約を入れました。
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ディーラーに行くと待っていたのは、私の憧れた白いエリーゼでした。
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実際に試乗してみると、驚くほど肌に合う車でした。
シート、ペダル、シフト、ステアリングなど全ての体と手足で触れる部分が理想的な位置に感じられ、初めて運転する車には感じられませんでした。
まるで自分のために寸法を合わせてオーダーメイドで仕立てたスーツのようなフィット感でありながら、履き慣れたスニーカーのように何の不安も無く履きこなせる感覚も共存していました。
中学の頃の憧れの車がここまでしっくりくるとは感無量で、タイミング良く駐車場も格安で押さえられる状況だったため、私は何の迷いもなく購入の申し込みをしました。
ローンの申し込み用紙には「勤続年数0年0ヶ月」と書いたのをよく覚えています。それで通ったのが面白いですが、通って良かったです。
私の憧れの車と歩むカーライフが始まりました。
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エリーゼに乗り始めてからは、車が縁を引き寄せてくれたことで、今までに無かった交友関係が広がりました。
翌年にはエリーゼを通じて仲良くなった友人と共に、東京から北海道最北端の稚内まで行って帰ってくる、3000kmのロングツーリングに三人で行きました。
3人それぞれの車に乗り、トランシーバーを繋ぎ、たわいもない話をしながら快晴の北海道をどこまでも駆け抜けました。大自然とひたすら続く道、美味しい食事や温泉、道中で交わすふざけた話から真面目な話まで、全てが詰まったこの体験は今振り返っても唯一無二の思い出です。
味わった事の無いセンセーショナルな体験に圧倒される旅でした。
この後も彼らとは何度も日本各地へ同様の車旅をしましたが、どの旅と比べてもこの最初のツーリングはその中でも別格の旅でした。そして、この旅の感動はのちに私が北海道移住を決行する大きな理由の一つにもなりました。
自分だけでなく、人をもてなす2台目の車
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私は当時都内に住んでいた事もあり、東京メトロへのアクセスも良く、日頃の移動の足としての車は一切必要ない生活をしていました。
ただ、趣味車と実用車の2台持ちというのは車好きの中では分かりやすいロマンだったので、「エリーゼの隣に並べるならどの車が良いか」というのは日頃考えていました。
エリーゼは自分が運転する分には世界一楽しい車だと思っていましたが、市販車の皮を被ったレーシングカーかゴーカートのような作りのエリーゼは乗り込みにくく、人を乗せても音がうるさくて会話がし辛い車でした。
私は幼少期から助手席に座って人と会話するのが好きだったので、友人を助手席に乗せて「静かな車内で会話をしながら色々な所に行く」という使い方ができる車を求めていました。
そこで考えていたのがアルファロメオのジュリエッタです。
癖がありながらも美しいハッチバックで、エリーゼと並べてもアンバランスな感じがせず、平等に2台を愛でながら持てるだろうなと思っていました。
なので「ジュリエッタ欲しいな」というのは日頃車友達には話していたのですが、言霊と言うべきか、言質と言うべきか、北海道のツーリングから帰ってきて数ヶ月後、ある日友人が「面白いジュリエッタが入荷したらしいよ」と知り合いの車屋さんを紹介してくれました。
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せっかくの紹介なので私はその車屋のある関西まで足を運び、そのジュリエッタを試乗してみました。
「面白い」と紹介されるだけあって普通のジュリエッタではなく、車高や吸排気をはじめ一通りの走りに振った改造が施されており、カタログスペックの235馬力をゆうに上回る、推定300馬力ほどにパワーアップされている上にマニュアル車という癖のある個体でした。
しかし試乗した第一印象は「なんて乗り辛い車なんだ」でした。
完全に自分の手足に感じられたエリーゼとは全くの真逆で、シートのポジションは全く合わず、膨らんだ丸いノーズのせいで車両感覚は掴みにくく、大きめのステアリングは操作し辛いと感じました。
しかし、それでも欲しくさせるのがイタリア車の魔力です。こんなに乗り辛いと感じたにも関わらず、私はこの車を乗りこなしてみたいと思ってしまったのです。
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結果アルファロメオの魅力に抗えず、2台持ち生活が始まってしまいました。
実はこの時、住んでいたマンションの管理人が当初使っていた屋根付き駐車場が入居者向けに貸し出していたものを契約してエリーゼを家の車庫に移動したばかりのタイミングで、最初に使っていた11,000円の機械式も再契約すれば駐車場問題も無く2台持ちができる状況にあったのです。
エリーゼの時もですが、色々なタイミングが良すぎました。
その後赤いジュリエッタは数万キロ乗って友人と様々な思い出を作って大変気に入っていたのですが、中古で買った故に劣化している箇所も多く、距離的にも10万キロが見えてきて、長く乗り続けるには不安がありました。
そんな時に舞い込んできたのがジュリエッタ生産終了のニュース。
湘南に移住した直後だった私は藤沢のディーラーに足を運び、赤いジュリエッタを下取りに出して日本向けに出荷された最後の一台の白いジュリエッタに乗り換え、末長く乗る決意をしました。
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新車は初めてだったのでフロントバンパーやトランクの段にはプロテクションラッピングを施し、こまめな清掃とメンテナンスを欠かさず、なるべく新車に近い状態を保ち続けられるよう大切に乗り続けています。
お陰で3万キロ以上乗った今も状態は非常に良く、移住の際に北海道に持ってきて札幌のディーラーに入庫したら状態の良さに驚かれた程です。
新車から丁重に乗っているジュリエッタの車内は快適で、今でもお喋りな妻と一緒にお出掛けを楽しむために欠かせない乗り物になっています。
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自分一人で楽しむ憧れの車だけでなく、周りの大事な人たちをもてなすための車もあると、人生が豊かになるという事はジュリエッタに乗っていて日々感じている事です。
特に湘南エリアに住んでいた頃はお気に入りのカフェやレストランが非常に多かったので、ジュリエッタは友達を乗せてお気に入りの場所に連れていって時間を楽しむという重要な役割を果たしてくれました。
エリーゼとジュリエッタの組み合わせは、ライフスタイルを模索する中で辿り着いた理想の2台持ちでした。
東京→湘南移住して過ごした3年間
2020年のパンデミックで会社がフルリモート体制に移行したタイミングで、せっかく家で仕事するならばと私は東京都内から大学時代に気に入っていた神奈川の湘南エリアに戻りたいと考えました。
そんな想いを抱えながらなんとなくスーモを開いたら、偶然湘南の鵠沼海岸に建ったばかりの新築のデザイナーズ物件が掲載されていたので即連絡を入れてひとまず見に行きました。
2LDKのメゾネットで寝室と仕事部屋を分ける事ができ、開放的な天井の高い2階リビングは在宅ワークの閉塞感を解消してくれる間取りで、しかも運営しているガジェットブログのための大量の機材を入れられる収納まであり、今のリモートワーク中心の生活にはこの上ない条件でした。
しかも、江ノ島まで歩いて行ける立地です。
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理想の生活が実現できそうだと思い、即決で引っ越しを決めました。
この時も、やはり全てのタイミングが噛み合って絶妙でした。
当時は運営していたガジェットブログも好調で、収益的にも自宅の作業環境を整える事で更に伸ばしていけるという期待値も後押しになりました。
先述した2台の愛車のくだりに続いて2LDKへの引っ越しと、一体どこからそんなお金が出てくるのかと気になった方も居るもしれませんが、引っ越し時点で私はUI/UXデザイナーの本業を本気で頑張って新卒1年目から年収を2倍以上に伸ばした上で、副業のブログも安定して稼ぎ、更に動画作成の副業までやっていたので、相応に勤労だったと言う他無いかもしれません。
20代のエネルギーを燃やしまくっていました。
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移住後は理想の仕事部屋のためにケーブルが視界から完全に消えるデスクを組んでみたり、ブログの収入を上げる施策に夜通し取り組んでみたり、自作のWordPressテーマを再度リニューアルしてみたり、自分のやりたい事に真っ直ぐ取り組んで新しい環境を存分に活かしていました。
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立地のお陰で気分転換に江ノ島にふらっと散歩に行けたり、湘南T-SITEやテラスモールなどの商業施設、紅茶や珈琲と海の景色が楽しめるカフェの開拓など、精神を支える娯楽面でも非常に充実していました。
機会があれば、この頃に開拓したお気に入りのお店の紹介でもしたいです。
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湘南エリアはアニメの舞台にもされやすく、Just Because!やMFゴーストなどの藤沢を舞台にした作品やぼっち・ざ・ろっく!の江ノ島回など、日々の生活で見ている景色がそのままアニメに出てくるのも非常に面白かったです。
新しい生活と理想的な作業環境の中で私の収入は目論見通り伸びてくれて、一時期は副業の売り上げが本業の年収を越える事もありました。
しかし、このように順風満帆に見える生活をしている中で、私は徐々に行き詰まっていく事になります。
関東生活のゴールを見失った先で見つけた道
賃貸物件でこのような生活をしている中で、次のステップとして考えていたのは持ち家への引っ越しです。
私は先述したとおり車2台を非常に大切にしていたので、鵠沼海岸の物件では一時的に平置き駐車場に置いて乗らない期間はカバーを掛けて保管しており、これから何十年も乗りたい車を雨風から守るためには1日でも早くガレージ保管に移行したいと考えていました。
しかし、それは到底無理な話だと気付いたのです。
私が気に入って住んでいた鵠沼海岸の近辺は土地の価格が非常に高く、普通の会社員が本業や副業を頑張った所で、2台の車が入るガレージハウスは現実的に手の届かない代物でした。
まず土地代だけで5,000万円前後からスタートという相場感で、その上でガレージハウスという土地面積と建設費が嵩む選択はもはや一般会社員がローンを組んでどうこうなる金額ではありません。
古めの中古物件を眺めても、ガレージ付きをやっと見つけたかと思いきや車の出し入れが非常に難しい昔ながらの住宅地の中で、しかも違法建築のため一般的な金融機関ではローンが組めず、一括で払えなければ法外な金利を要求してくる機関から借りるしかない物件だったりと、とても呑める条件ではありませんでした。
そもそも独身で住宅ローンを組んで家を建てる事自体が世間的に見れば賛否両論の行為ではありますが、私の求めるライフスタイルは愛車と何十年も寄り添って暮らせる家が機能として必要だと感じていたので、それが実現できないとなると人生のロードマップは途絶えてしまいます。
そんな中、動画の副業も委託元が事業を畳み、様々な条件が重なりブログの収益も低迷、更には会社の業績も悪化してボーナスが毎期減額されていくなど、全ての収入源が同時に崩れ去っていきました。
正社員を続けていたため生活する分には十分な収入はあったものの、憧れのガレージハウスへの道筋は見えず、方向転換が必要なのは明白でした。
その頃に出会ったのが、今の妻となる女性です。
厳密には出会ったというより、以前からお互い遠巻きに知っていたけれども、偶然仲良くなったと言うのが正しいかもしれません。
私は以前から彼女の写真作品に惹かれて尊敬するクリエイターとして追っていたのですが、当時在宅で働く私は友人が運営するオンラインコミュニティの作業通話に入り浸っており、そこにたまたま彼女が頻繁に現れるようになったのです。これがきっかけになりました。
北海道を拠点とする彼女はフリーランスのグラフィックデザイナーの傍らフォトグラファーとしても活躍しており、以前から私は彼女がInstagramに投稿したり、商業媒体に納品したりしている写真を見て作品に強く惹かれるものがありました。
元々は私の友人が彼女にグラフィックの仕事を発注していた関係で知ったので共通の知り合いも多く、界隈の中に居る一人程度の距離感でしか知らなかったのですが、ある時期から頻繁に作業の裏のグループ通話の中で交流するようになり、作品以外の部分にも惹かれていく事になります。
私が分かりやすく感動したのは、彼女の引き出しの多さです。それまでは私はオタク気質ゆえに異性と話す時は何事も説明口調になりがちで、先生やツアーガイドのような割合で喋ってしまう事が多かったのですが、この人とは全くそのようにならなかったのが驚きでした。湯水のように言葉が溢れてきて、会話が続くのがひたすら楽しかったのです。
何事もよく調べ、日々新しい事に挑戦し、経験を積み上げてきた彼女の言葉には随所に学びがありました。新しく出てきた生成AIツールも即座に自分なりの使い道を見出していて、純粋にクリエイターとして多大な尊敬の感情を持ちました。
純粋に過去の引き出しが多いだけでなく、常に引き出しを増やし続けているその姿勢は、今後もずっと話を聞いていたいと思わせるものでした。
いつしか私は頻繁に飛行機で札幌へ足を運ぶようになり、彼女と交流を重ねながら北海道の魅力にも惹かれていきました。かつて車旅で訪れた中でも別格に感動した北海道でしたが、改めて色々な季節に来てみると新たな発見が次々と見つかりました。
徐々に、私が進むべき道はこれだと確信していきました。
北海道であれば土地価格で憧れのガレージハウスを諦める必要もなく、何より彼女と一緒に居る事でお互いの出来る事が広がっていくのは将来の可能性をも大きく広げてくれます。
私は北海道移住を決意しました。
友人より警察を呼んだ回数の方が多かった東区
札幌に引っ越してきて、最初に住んだのは東区でした。
札幌の家賃相場は道内では高いものの関東と比べると格安で、二人が在宅で仕事するのに十分な3LDKの間取りを確保しつつも、一人暮らしの頃より家賃が下がる事には感動しました。
物件としても意匠にこだわられており、とても気に入っていました。
ただ、この家は半年で退去する事になります。
理由は治安の悪さの一言に尽きます。事前にもっと慎重に土地を選んでおけば良かったのかもしれませんが、道民の妻もここまで酷いとは思わなかったと驚いていました。
両隣の住人は深夜に電動工具でDIYしていたり犬の遠吠えを放置して何日も出掛けていたり、冬の間は路上の違法駐車で除雪車が入れず、春になるとノーヘルの原付が暴走し、電柱は木登りの遊具にされ、道路は小学生が寝転んで遊んでいて通れず、駐輪場は中高生に燃やされ、妻の自転車も壊され、駐車場にある近隣住民の車も傷付けられ、警察も頻繁に出動していました。
今まで住んだ地域の中でも群を抜いた治安の悪さでした。
私は神奈川から北海道への遠距離の転居に貯金を使ってしまった直後であり再度引っ越しをする余裕があるかと言えば苦しい状況ではあったのですが、流石にこの治安の悪さはそうも言ってられません。
耐えかねた私たちは安寧を求めて別の区へ引っ越し、幸いそういった治安に関する悩みからは解放されて今でも平和に暮らしています。
ただ東区自体は好きな所もあり、大きなモエレ沼公園で散歩したり丘珠空港で飛行機を眺めたりとリフレッシュできる環境があり、札幌中心部へのアクセスも良く、愛車のアルファロメオを任せられるディーラーもあり、近所の治安の問題さえ無ければしばらく住み続けていたと思います。
自分を見直す機会になった結婚生活
北海道移住して妻と結婚して共同生活を始めた私は、今まで東京と神奈川で送ってきた独身貴族的な生活を見直す良い機会になりました。
自分の興味関心分野がそのまま副業としてお金を生み出す成功体験を何度も得てしまっていた私は、新製品の購入もサブスクの契約も全て個人事業の必要経費だという考えで、財布の紐が緩いどころか、紐は遠い昔にどこかに置いてきてしまった状態でした。
しかし、共同生活ともなるとそうも言ってられません。
私は将来を見据え、サブスクをはじめ不要な固定費を削減し、新製品の購入に関してもより慎重に、しっかりと検討をするようになりました。
もし仮に神奈川の独身生活で収入がそのまま右肩上がりだったとしても、入ってきたお金がそのまま出ていくようでは一生お金は貯まらないままだったと思います。
現実的に、物やコンテンツにお金をいくら注ぎ込もうとも人間が消化できる分量は限られています。私の場合はとっくに人間側がボトルネックになっており、私が消化し切れない分まで無駄に出費を重ねていました。
それに気付けたのは、大きな転機でした。
自分が使い切れる分の自己投資をしっかり見極めて投入していく事で、今後入ってくる収入を有効活用して資産形成していく土壌を整えました。
収入が激減したのは短期で見れば悲劇でしたが、長期で見れば必要な体験だった事は言うまでも無いでしょう。底に落ちた状態からマネーリテラシーを改め、体制が整った上で収入を得るというのは今後の長い人生においてこのタイミングで必要な方向転換でした。
かつての大きな収入も貯金も無い状態でしたが、心は不思議と安心感があり、一人暮らしの頃に感じていた閉塞感は払拭された事に気付きました。
改めて次に進むための準備が整ったのです。
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ちなみに、新婚旅行は沖縄に行きました。移住のタイミングもあり全体の予算としては控えめの旅行でしたが、「沖縄でオープンカーに乗ってみたい」という私のワガママを一つだけ聞いてもらい、ビートルのカブリオレで沖縄旅行を楽しんだのは本当に正解でした。
「沖縄でオープンカーに乗る」というのは一度やってみたかったので、新婚旅行という特別なタイミングでその夢が叶えられたのは嬉しかったです。妻はバイク乗りな事もあってオープンカーの助手席は好きなので、二人で沖縄の空気感を満喫できたのは収穫でした。
道中、製品として気に入っていたInsta360の360度カメラを試せたのもガジェット好きとしては嬉しかったです。360度カメラは前後の映像を同時に記録する事で、全方位の映像の記録から好きな画角を切り出す事ができる画期的なカメラです。
一度しか無い新婚旅行の記録を全方位で残せたとの同時に、今後北海道で取り組んでいくコンテンツ作りを見据えた良い参考にもなりました。
この経験から、やはり自分一人の世界で技術を試すより、周りの人に影響されながらもっと広い世界で試したほうが面白いと感じるようになりました。実際妻と暮らし始めてからは自分では考えてもいなかった場所に足を運び、思わぬ収穫に出会う事が多々あります。
結婚して良かったと、心の底から思っています。
学生時代の縁から、AI業界への転職
ChatGPTの登場以来、AIは瞬く間に世界のトレンドになりました。
私もAIの虜になった一人で、ブログの売り上げやアクセスのデータなどをAIに処理させたり、AIの力で本業を補助するツールを作ったりと、AIによって出来る事の幅が一気に広がったのを身を持って体験していました。
「人類の生産性を底上げして未来を先取りする」という幼い頃から育ててきた野望を実現するのに、AIは二度と無い大きなチャンスです。今こそAIを使って人々の仕事の役に立つプロダクトを作るべきタイミングだと、強く思っていました。
しかし新卒から勤めてきた会社は製品は様々な性質上の問題で、AIの技術を応用し辛い状況にありました。AIに対して燃え上がるモチベーションの行き場が無く、どこかに投じる場所を見つける必要がありました。
そんな事を悶々と考えていた頃、おおよそ10年ぶりに大学時代の先輩から一通のメッセージが届きます。
「弊社でUI/UXデザイナー絶賛募集中なんですけど、話聞いてみませんか?」
その会社は、日本のAI業界の最先端を行くベンチャー企業の一つでした。私は心の底から震え上がりました。
「やりたい事ができる。」
東京の会社とオンラインでビデオ通話を繋ぎ、人事担当や開発者、デザイナー、そしてCEOと様々な会話を交わしました。
話してみて思ったのは、まず「この人たちと一緒に働いてみたい」という人が集まっていたという事。大学時代の発明家に囲まれた研究会の先輩の紹介と言う事もあり、あの頃のワクワクした空気がこの会社にもあったのです。
そしてもう一つの大きなポイントとして、会社の理念が自分の野望と綺麗に重なっていたのです。その会社は新しい技術を開発するだけでなく、それを実際に社会に組み込み、未来の当たり前を作る事を掲げていました。
ここならAIで私の野望が実現できる。そう思いました。
私は新卒から7年間勤めた会社を退職し、この会社でAIプロダクト作って野望を叶えるべく、初めての転職に踏み切りました。
前職も楽しい職場でしたが、いざ働き始めてみると新しい職場はその上を行く楽しさでした。当面はこの会社で野望に向けて突き進んでいく予定です。
猫のルフナさんとの出会い
私は動物が昔から苦手で、幼い頃は触る事すらできませんでした。
大人になってからも動物から距離を置いた生活をしていて、まさか自分が動物と暮らす事になる事は全く想像もしていませんでした。
ただ猫に関しては以前から縁があり、都内で暮らしていた頃は深夜の公園で擦り寄られた野良猫が家のベランダの遊びに来てくれる体験をしたり、神奈川の頃は江ノ島でよく猫の写真を撮ったりしていました。
それでもほんの少しの親近感を持っていたというだけで、実際に一緒に暮らす事を検討した事はありませんでした。
しかし、動物との出会いというのは分からないものです。
ある日ショッピングモールで買い物をしていた日、妻がいつものようにペットショップで展示されている動物を眺めに行き、私も一緒にガラス越しの動物たちを見ていました。
その中で、一匹の不思議な猫が居たのです。
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彼はブリティッシュショートヘアの男の子で、他の猫がキャットタワーで遊んでいる横で、一匹だけスタッフの出入り口のドアの外に視線を向けて佇んでいました。
まるで、どこか違う場所へ行きたがっているかのようでした。
とても賢そうな雰囲気で、私は上手く説明できないのですが、彼に惹きつけられるものがありました。
彼はブリティッシュという名前のとおり英国原産の猫で、私と同じ愛知県生まれで、誕生日も私と数日違い。しかも北海道に連れて来られた後は私たちと同じ東区に居たそうで、私たちの転居と同じ頃に東区からお店を移ってきたそうなのです。まるで私たちを追ってきたかのような経歴でした。
その日は何もなく帰宅したのですが、この猫の存在は心の中に残り続けており、意を決して数日後に迎えに行ったのです。
私はこの猫と暮らしたいと、強く思いました。
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紅茶文化のある英国原産の猫にちなんで、神奈川に住んでいた頃に通っていたお店のお気に入りの紅茶から取って「ルフナ」と名付けました。
私と妻とルフナさんの生活が始まりました。
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猫と暮らすのは初めての事でしたが、あの日ルフナさんを迎えに行って本当に良かったと思っています。半年一緒に暮らし、すくすくと育った彼の体重は来た時の3倍以上に増えました。
今ではすっかり懐いてくれて、外から帰ると擦り寄ってきたり、朝になると枕元まで来てくれて猫に起こされる幸せな生活を送っていて、毎日が多幸感に溢れています。
人類の生産性を上げ、周りの人々を幸せにする
このように今までの人生を振り返ると、どのエピソードも今の自分を形作る重要なパーツになっている事を改めて感じます。
本業でAIにより社会の生産性を上げ、副業では情報発信で人々の生産性を上げつつ最新技術を世の中に広め、得た収益で自分と周りの大切な人たちを幸せにしたいというのが私の今の野望であり、方針であり、願いです。
私の北海道移住してからの「友達作り」は難航していて、在宅で仕事をしているのもあって新しい縁はまだ中々少ない状態です。そんな中でも寂しくないのは妻と猫の存在も勿論大きいのですが、今までの交友関係の厚さなのかなと最近思い始めています。
あまり数字として数えていなかったので妻に指摘されて初めて気付いたのですが、1月の振り返りでも書いたように私が北海道に来てからも毎月のように誰かしらの友人が会いに来てくれていて、一緒に食事に行く機会に恵まれていました。
やはり、幸せは大切な人たちと分かち合ってこそだと感じています。
かつては「自分と趣味のための家を建てたい」という気持ちで戸建を欲しがっていましたが、今は自分の趣味を包括しつつも、家族が毎日快適に過ごせて、遠くから足を運んでくれる大切な友人をもてなす事ができる空間を望むようになりました。
まだまだ道半ばではありますが、これから北海道を拠点に人類の発展と身の回りの幸せのために頑張っていきたい所存です。
その過程をこれからもnoteで少しずつ発信していく予定なので、もしよろしければフォローして見守っていただけると嬉しいです。
それでは。
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